桜ふたたび 前編
「澪」
ジェイはテーブルに頬杖ついたまま、詠うように囁く。
「このまま君を帰したくない」
澪は、どこか遠くで異国の詩を聴いたような気がした。
小首を傾げた澪の手を取り、ジェイはそっと、その指に唇を押し当てる。一連の所作が滑らかで、まるでフランス映画を観ているよう。
「今夜は、ふたりの特別な夜にしよう」
つと澪は目を見開き、罠から逃げる兎のように手を引いた。
まったく油断していた。
澪はこれまで、異性からの特別な視線を察した時点で、その人との接触を避けてきた。
それなのに、臆病がゆえに高性能なアンテナが、今回に限り危険を感知できなかった。
いや、感知も何も、そもそもジェイが、自分を性の対象として見ていようとは、微塵も思っていなかったのだ。
彼のような洗練された大人が、こんな垢抜けない女をオンナとして意識するわけがない。
〝いい時間つぶしの相手〞が、澪にはとても居心地がよかった。
それを、最後の最後になって、唐突に飛び越えて来ようとは。
重苦しい空気のなかで、澪はコリンズグラスをテーブルに戻すことも忘れて、目を落としたまま沈黙していた。
「好きな男がいる?」
澪はためらいなく頭を振った。
「体調が悪い?」
再び首を振る。
「宗教上の問題?」
それにも澪は首を振る。