桜ふたたび 前編
波立つ浜辺に立ったとき、澪の脳裏には生まれ故郷の海があった。

祖母の家で過ごした幼い日、澪の心は自由だった。何もおそれず、何にも縛られず、のびやかに毎日を過ごしていた。

祖母は働き者で気丈なひとだった。
漁師の夫を海で亡くし、生まれたばかりの娘と育ち盛りの息子を抱えて、鰹節製造工場で朝から晩まで生魚を捌いていたと聞く。

当時の女工の安月給で、それでも子どもたちを育てられたのは、漁師仲間たちの助けのおかげだ。そのご恩を忘れずにいつかみなさんにお返ししなさいと、母の願いどおり、実直な息子は中学卒業と同時に、彼らの一番下っ端として海へ出た。

澪が生まれた頃には、伯父はすでに結婚して、一人前の遠洋漁業船の乗組員として生計を立てていた。
伯母は世話好きでおおらかなひとだから、ぼっけもん気質を絵に描いたような寡黙で不器用な夫とも、すこぶる仲が良かった。

どこから見ても円満な家庭。ただ一つ、伯父夫婦は子宝にはなかなか恵まれなかった。
それもあって、母親から産み捨てにされた澪を、実子同然に育ててくれたのだ。

──母親から産み捨てにされた娘。

人と人との距離が濃密な田舎町で、澪はそのことの意味もわからずに育った。

人の口に戸は立てられない。ちょっとしたおとなの立ち話が、子どもたちの残酷ないじめを引き起こすこともある。伯父が己の立場も顧みず漁連長の家に乗り込んだことは、一度や二度ではなかったらしい。

澪の幸せは、雨風から小さな芽を守るように、祖母や伯父夫婦が、周囲の同情や悪意から庇い続けたうえにあった。そんなことを意識して考えた覚えがないほど、ほんとうに大切に育ててくれたのだ。

ある寒い朝、祖母は澪の手を握り、長い間、波間を見つめていた。
首に巻いた手ぬぐいが風に飛ばされて行くのも追わず、空高く舞い飛ぶカモメを仰いだまま、白い息を吐いた。
澪はなぜか不安にかられて、祖母の手にじっとかじりついていた。

やがて祖母は腰を落とし、澪の小さな両手にかんざしをしっかりと握らせて言った。

〈おばあちゃんの宝物、大事にするんだよ〉

祖母が嫁ぐ際、曾祖母から譲られたもの。どんなに貧しくとも、これだけは手放さなかったのだと、祖母は言った。

〈きっと、澪を守ってくれるから〉

そう言って、祖母は節くれだった手で頭を撫でてくれた。

記憶のなかの澪は、ただ泣いていた。見捨てられた気持ちでかんざしを握りしめ、いつまでも泣きじゃくっていた。
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