桜ふたたび 前編
ジェイは、濡れそぼつ高層ビルの窓からぼんやりと、地上の往来を眺めていた。

週末で交通量が少ないうえに、嵐の気配に人影も疎らだ。街路樹が生き物のように蠢いている。流れる雲の隙間から薄日が漏れて、大都会に光陰の帯をゆっくりと走らせて行った。

──京都へ帰っただろうか。

昨夜の澪の態度は想定外だった。

突然の呼び出しに雨の中を駆けつけてきたのも、頬を赤らめた笑顔も、濡れた瞳の輝きも、唇の艶っぽさも、恋する女の典型的な特徴だ。京都駅では、はやる欲情に襲われて、悟られまいとつい素っ気ない態度を取ってしまったほどだった。
加えて過去の経験から、自分を拒否する女はいないと高を括っていた。

それがまさかの緘黙。怯えた瞳は、恐怖や嫌悪さえ感じられた。

と言って完全に拒絶する態度でもない。
己の価値を吊り上げようともったいぶって駆け引きする女とは思えないし、こんなケースは初めてだった。

──何だ? この敗北感。

手元まで誘い出した小鳥に、羽で頬を打たれて飛び去られた気分だ。

望んで得られないものなどない。ジェイは幼い頃からそう自負してきた。
すべての事象には定義があり、情報収集、理論とそれに基づく計算、観察、そして実行に充分な資金があれば、人の心さえ容易く動かし手に入れることも可能だった。

それが、あんな小娘相手に、何という無様。

セックスの相手ならいくらでもいる。なぜ澪にこだわるのか。

──桜のせいだ。

ふくよかな春の香り。夕闇に淡雪のように浮かびあがる桜。桜の精のように儚げにたたずむ黒髪の女。
あの情景を思い出すたび、郷愁にも似たやるせない感情が胸奥に湧き起こる。
その感情が、風景にではなく、封印した写真に対するものだと気づいて、ジェイは左頬に自嘲的な窪みを作った。

──やはりあの瞳のせいだ。あの瞳の前でなら、すべての罪が赦される。

──懺悔は神の前でするものだろう?

ジェイは感傷的な己を嗤った。

『失礼します』

ああ、またタイムキーパーがやってきた。ジェイは気持ちを切り替えるように深呼吸をした。
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