桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
波立つ浜辺に立ったとき、澪の脳裏には、生まれ故郷の海があった。
田舎の祖母の家で過ごした幼い日々、澪の心は自由だった。
何もおそれず、何にも縛られず、のびやかに毎日を送っていた。
祖母は働き者で気丈な人だった。
漁師の夫を海で亡くし、生まれたばかりの娘と育ち盛りの息子を抱えて、朝から晩まで鰹節工場で生魚を捌いていたと聞く。
当時の女工の薄給でも、子どもたちを飢えさせずに済んだのは、漁師仲間たちの支えがあったからだ。
お下がりの服はもちろん、娘が熱を出せば、仕事を休めない母に代わって、仲間の妻たちが交替で看病してくれた。
思春期の息子に元気がないと聞けば、父親代わりに相談にものってくれた。
「そのご恩を忘れずに、いつかみなさんにお返ししなさい」と、母の願いどおり、実直な息子は中学卒業と同時に彼らの一番下っ端として海へ出た。
澪が生まれた頃には、伯父はすでに結婚して、一人前の遠洋漁業船の乗組員として生計を立てていた。
伯母は世話好きでおおらかな人だから、ぼっけもん気質を絵に描いたような寡黙で不器用な夫とも、すこぶる仲が良かった。
工場を退き菜園を始めた祖母を手伝い、漁師仲間の奥さんにお裾分けに行ったきり、夕飯時までおしゃべりしてしまうようなうっかり者でもあった。
どこから見ても円満な家庭。
ただ一つ、伯父夫婦は子宝にはなかなか恵まれなかった。
それもあって、母親から産み捨てにされた澪を、実子同然に育ててくれたのだ。
──母親から産み捨てにされた娘。
人と人との距離が近すぎる田舎町で、澪はそのことの意味もわからずに育った。
人の口に戸は立てられない。ちょっとした大人の立ち話が、子どもたちのいじめを引き起こすこともある。
伯父が己の立場も顧みず漁連長の家に乗り込んだことは、一度や二度ではなかったらしい。
澪の幸せは、雨風から小さな芽を守るように、祖母や伯父夫婦が、周囲の同情や悪意から庇い続けてくれたうえにあった。
そんなことを意識して考えた覚えがないほど、ほんとうに大切に、育ててくれたのだ。
波立つ浜辺に立ったとき、澪の脳裏には、生まれ故郷の海があった。
田舎の祖母の家で過ごした幼い日々、澪の心は自由だった。
何もおそれず、何にも縛られず、のびやかに毎日を送っていた。
祖母は働き者で気丈な人だった。
漁師の夫を海で亡くし、生まれたばかりの娘と育ち盛りの息子を抱えて、朝から晩まで鰹節工場で生魚を捌いていたと聞く。
当時の女工の薄給でも、子どもたちを飢えさせずに済んだのは、漁師仲間たちの支えがあったからだ。
お下がりの服はもちろん、娘が熱を出せば、仕事を休めない母に代わって、仲間の妻たちが交替で看病してくれた。
思春期の息子に元気がないと聞けば、父親代わりに相談にものってくれた。
「そのご恩を忘れずに、いつかみなさんにお返ししなさい」と、母の願いどおり、実直な息子は中学卒業と同時に彼らの一番下っ端として海へ出た。
澪が生まれた頃には、伯父はすでに結婚して、一人前の遠洋漁業船の乗組員として生計を立てていた。
伯母は世話好きでおおらかな人だから、ぼっけもん気質を絵に描いたような寡黙で不器用な夫とも、すこぶる仲が良かった。
工場を退き菜園を始めた祖母を手伝い、漁師仲間の奥さんにお裾分けに行ったきり、夕飯時までおしゃべりしてしまうようなうっかり者でもあった。
どこから見ても円満な家庭。
ただ一つ、伯父夫婦は子宝にはなかなか恵まれなかった。
それもあって、母親から産み捨てにされた澪を、実子同然に育ててくれたのだ。
──母親から産み捨てにされた娘。
人と人との距離が近すぎる田舎町で、澪はそのことの意味もわからずに育った。
人の口に戸は立てられない。ちょっとした大人の立ち話が、子どもたちのいじめを引き起こすこともある。
伯父が己の立場も顧みず漁連長の家に乗り込んだことは、一度や二度ではなかったらしい。
澪の幸せは、雨風から小さな芽を守るように、祖母や伯父夫婦が、周囲の同情や悪意から庇い続けてくれたうえにあった。
そんなことを意識して考えた覚えがないほど、ほんとうに大切に、育ててくれたのだ。