桜ふたたび 前編
ある寒い朝、祖母は澪の手を握り、長い間、波間を見つめていた。
首に巻いた手ぬぐいが風に飛ばされても追わず、空高く舞うカモメを仰いだまま、白いため息を吐いた。
澪はなぜか哀しい不安にかられて、祖母の手にじっとかじりついていた。
やがて祖母は腰を落とし、澪の小さな手にかんざしを握らせて言った。
〈おばあちゃんの宝物、大事にするんだよ〉
白鼈甲に蒔絵の蝶。祖母が嫁ぐとき、曾祖母から譲られたもの。どんなに貧しくとも、これだけは手放さなかったと、祖母は言った。
〈きっと、澪を守ってくれるから〉
そう言って、節くれだった手で頭を撫でてくれた。
記憶のなかの澪は、ただ泣いていた。見捨てられた気持ちでかんざしを握りしめ、いつまでも泣きじゃくっていた。
あのとき、祖母の手をもっとしっかり握っておけば、人生は違ったものになったのかもしれない。
次に澪の手を掴んだのは、罪深い母の手だった。
残酷な手を、それでも澪ははぐれまいと懸命に握りしめていた。
ただ、疎まれることが怖くて、また置いてきぼりにされるのが怖くて、いつの頃からか、言葉を飲み込む癖がついた。
周囲の顔色をうかがって、泣くことも怒ることもできず、母が望む〝良い子〞であろうとした。
でも、愛されたいと願えば願うほど、なぜか人の心は遠ざかっていった。
そして、澪に利用価値がなくなったとき、母はその手を振り払った。
あの日から、澪は、家族の手も、友人の手も、恋人の手も、自分から握ろうとしたことがない。
拒絶され、絶望することが怖ろしかったからだ。
かんざしが澪を守ってくれることはなかった。
優しかった祖母も十三年前に他界した。祖母の葬儀の報せさえ、澪には届かなかった。
かんざしも、引き出しの奥にしまったきり、記憶の隅に置き忘れていた。
そう思うと、かんざしを拾ったジェイとの出会いには、何か意味があるのだろうか……。