桜ふたたび 前編
しかし、澪の平穏は続かなかった。翌日、千世からメールで呼び出されたのだ。

忘れていたわけではない。いつだって心の隅っこにチクチクと罪悪感はあった。それなのに、気づかないふりをしていた。

ジェイとのことをどうやって打ち明けよう。
いや、そもそもこの先、彼とどうにかなるものでもないし、知らぬが仏、見ぬが秘事、黙っていた方がよいのではないかしら……。

狡い。
でも彼女の逆鱗に触れて、絶交されるのは心底こわい。
だからと言って、このまま裏切りを隠して、彼女の目を直視できるほど肝も座っていない。
──ああ、どうしたらいいの?

重い気持ちのまま向かった珈琲店は、漆喰壁にドーム天井、ステンドグラスが色鮮やかな西洋館で、京都縁の芸術家たちの絵画や筆が壁を飾っていた。土曜の午後、クラシック音楽が流れる重厚な店内は、老若男女で満席状態だった。

「暑い、暑い」と手のひらで顔を扇ぎながら、千世は十五分遅れで現れた。

澪の顔を見つけるなり、興奮した様子で席に着くと、挨拶もなしにバッグから雑誌を取り出して、澪の前のカップから珈琲が飛び跳ねそうな勢いでテーブルに置いた。

「澪、これ読んだ?」

ファッションどころか流行にとんと興味がない澪が、読んでいるはずがないとわかっていて訊ねる。

首を横に振る澪に、千世はニヤリと様子ぶった笑みを浮かべ、付箋を貼ったページを開いた。メニューも開かずウエイトレスに顔を向けることもせず、抹茶あんみつパフェを注文し、お冷やを呑みながらじっと上目遣いに澪の表情の変化をうかがっている。
千世の住む山鉾町(祇園祭の鉾山保存会がある町)は猫の手も借りたい時節だろうに、祭りをほっぽり出すほどの重大事がここにあるのだろうか?

「クリスティーナ・ベッティ?」

澪は特集見出しにある女性の名を声にした。澪のリングと同じブランドのアンバサダーを務め、シャンプーのCMなどで日本でも人気の高いハリウッド女優だ。芸能ニュースに疎い澪でも知っている。

「ちゃう、ちゃう、こっち!」

人差し指で突かれた写真に、澪は目を移した。

それは、国際映画祭のワンシーンだった。
レッドカーペットの上、ワインカラーのイブニングドレスで満面の笑みを浮かべるクリスティーナ。贅肉のない白い腕をタキシードの男の腕に絡め、寄り添い見つめ合っている。

「あ!」

「な? そやろ? ここ、読んで、ここ、ここ」

文字を辿りながら、澪は駭然として目眩を起こしそうになった。
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