桜ふたたび 前編
〈コンコンチキチン、コンチキチン──〉

アーケードに祇園囃子が響いている。
暑い人いきれで気を失いそうになりながら、澪は茫然と歩き続けていた。

〈約束の印に〉

彼から高価な指輪を贈られたとき、本当は哀しかった。〝約束〞とは、互いの心を縛る呪文だと、澪は知っていたから。

そのときの言葉に偽りがなくても、人はいかんせん己の事情に流される。だから何か〝形〞で証を残そうとする。強い意志と思いがあれば、指切りも、誓紙も、誓いのキスも、約束の指輪も、必要がないはずなのに。

そして〝約束〞は受けた方の心をより強く縛るのだ。

突然、罵声のようなクラクションが響き、澪を現実へと引き戻した。

騙されたわけではない。はじめからOne night standだと承知していたのだから。
彼のようなひとに恋人がいないはずがないし、女性の扱いにとても慣れていて、きっと彼にとって〝特別な夜〞などよくあることなのだと。

指輪はあの夜の対価。
それなのに社交辞令の甘言を鵜呑みにして、ひとり舞い上がってしまった。

──これでよかったんだ。

澪の心のダムに、彼が小さな罅をつけた。
漏れ出す前に気づいてよかった。少し水が染み出ただけ、今ならまだ塞ぐことができる。

だけど、どう頭で解決をつけても、心の乱れは抑えられない。
あの夜の、身も心も痺れて魂が浮き上がるような感覚を知らずにいたら、きっとこんなに辛くはなかった。

遠雷が轟き、祭りの夜を愉しみに訪れた人々が、不安げに空を見上げた。

澪は何かにせき立てられるように走り出した。
頬を伝うものが、汗なのか、雨なのか、澪自身にもわからなかった。
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