桜ふたたび 前編
Ⅴ 過去からの使者

1、過去からの使者

昼下がりのカフェレストランで、澪は食後のコーヒーをテーブルに戻し、坪庭へ目を移した。

小さな石灯籠の脇で、つくばいの水面が楽しげに雨を弾いている。京都御苑の百日紅(サルスベリ)が終いの頃を迎えても、まだまだ夏の陽射しが猛威を奮っていたのに、今日は朝からの小ぬか雨で少し肌寒い。残の小向日葵がか細く震えていた。

効き過ぎた冷房に半袖の腕をさすって、澪はふと左手の薬指に目を止めた。

〈一ヶ月後に戻る〉

そう言って指輪にキスをした。
約束どおり、もうすぐ彼と逢える。そう思っただけで、体の奥に疼くような切なさを感じてしまう。

あの夜、澪は誰にも言えずにいた生い立ちをジェイに吐露してしまった。
心の膿を出し切れたかといえば、まだ頑固な芯が残っているけれど、何だか胸に支えていたものがスッキリ胃に落ちたような気がする。

だけど、ジェイが言うように、誰かに告白することで人がその呪縛から解放されるのなら、澪にはまだ、おそらく一生解けない呪いがかかっている。ジェイにも、いや彼にだけは知られたくない秘密──。

──大丈夫。こんなあやふやな関係がそう続くわけがない。

日本での仕事が済めば、彼と会うこともなくなる。そうしてお互いにあるべき場所に戻るだろう。人の心なんて変わるもの。澪自身、この恋心が不変だと断言できないのだから。

自分に言い聞かせるように頷いて、財布を手に腰を浮かしたとき、「澪?」と、聞き覚えのある声がした。

澪はぽかんと口を開けたまま、白い半袖ワイシャツの声の主を見上げていた。
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