桜ふたたび 前編
❀ ❀ ❀
あれは、両親と暮らしはじめてすぐのこと。曾祖父の三回忌法要だった。
鹿児島の家とは比べものにならないほど立派な屋敷の庭では、かまびすしいほど蝉が鳴いていた。木漏れ日が苔むした地面にまだらな影を落とし、風が緑の匂いを運んでくる。
南国育ちの澪には、東京の蒸し暑さはきつかったから、ここはまるで天国のように感じられた。
──お母さんはどこへ行っちゃったのだろう?
さっきまで一緒に台所を手伝っていたのに、まわりのおばちゃんたちが意地悪で、お手洗いに行ったきり戻ってこない。
廻り廊下を探し歩いていた澪は、ふと障子の向こうから聞こえてくる声に足を止めた。
〈悠斗だけでよかったのよ。なんであんなひと連れてくるの!〉
悠斗は三つ年下の弟だ。
父の幼い頃にそっくりだと誰からも好かれる彼は、好奇心旺盛で物怖じしない子で、突然現れた姉にも人懐っこい笑顔を向けてくれた。
澪の方は戸惑った。弟がいるなんて、知らなかったから。
〈昨夜までは納得してたのに、いざ出かけようとしたら先に車のハンドル握っていたんだから、どうしようもないだろう?〉
父の声に、いけないことだと知りながら、澪は障子の隙間から盗み見してしまった。だから──罰が当たったのかもしれない。
〈ほんとうに怖い女。よくもぬけぬけと顔を出せたものだわ。彼女のことだから、また何か企んでいるのよ〉
不機嫌そうな顔で父と話しているのは、平塚に住む伯母だった。
〈七年前だって、堕胎すと約束して手切れ金まで受け取ったくせに、いきなり臨月のお腹を抱えて、狛犬みたいなお兄さんを引き連れてくるなんて。それも、璃子ちゃんのコンクールの祝賀会に! そのうえ週刊誌にリークするなんて、やり方が悪辣なのよ。
お母さんはショックで倒れるし、稲山先生には絶縁を言い渡されるし、危うく会社を潰すところだったんですからね〉
──おろすって、何? りこちゃんって誰? あくらつってどういう意味?
おばちゃんの言葉は難しすぎて、澪にはよくわからなかった。
〈だいたい、澪のことだって──〉
自分の名前が出てきて、澪は思わず障子に耳を寄せた。
あれは、両親と暮らしはじめてすぐのこと。曾祖父の三回忌法要だった。
鹿児島の家とは比べものにならないほど立派な屋敷の庭では、かまびすしいほど蝉が鳴いていた。木漏れ日が苔むした地面にまだらな影を落とし、風が緑の匂いを運んでくる。
南国育ちの澪には、東京の蒸し暑さはきつかったから、ここはまるで天国のように感じられた。
──お母さんはどこへ行っちゃったのだろう?
さっきまで一緒に台所を手伝っていたのに、まわりのおばちゃんたちが意地悪で、お手洗いに行ったきり戻ってこない。
廻り廊下を探し歩いていた澪は、ふと障子の向こうから聞こえてくる声に足を止めた。
〈悠斗だけでよかったのよ。なんであんなひと連れてくるの!〉
悠斗は三つ年下の弟だ。
父の幼い頃にそっくりだと誰からも好かれる彼は、好奇心旺盛で物怖じしない子で、突然現れた姉にも人懐っこい笑顔を向けてくれた。
澪の方は戸惑った。弟がいるなんて、知らなかったから。
〈昨夜までは納得してたのに、いざ出かけようとしたら先に車のハンドル握っていたんだから、どうしようもないだろう?〉
父の声に、いけないことだと知りながら、澪は障子の隙間から盗み見してしまった。だから──罰が当たったのかもしれない。
〈ほんとうに怖い女。よくもぬけぬけと顔を出せたものだわ。彼女のことだから、また何か企んでいるのよ〉
不機嫌そうな顔で父と話しているのは、平塚に住む伯母だった。
〈七年前だって、堕胎すと約束して手切れ金まで受け取ったくせに、いきなり臨月のお腹を抱えて、狛犬みたいなお兄さんを引き連れてくるなんて。それも、璃子ちゃんのコンクールの祝賀会に! そのうえ週刊誌にリークするなんて、やり方が悪辣なのよ。
お母さんはショックで倒れるし、稲山先生には絶縁を言い渡されるし、危うく会社を潰すところだったんですからね〉
──おろすって、何? りこちゃんって誰? あくらつってどういう意味?
おばちゃんの言葉は難しすぎて、澪にはよくわからなかった。
〈だいたい、澪のことだって──〉
自分の名前が出てきて、澪は思わず障子に耳を寄せた。