その笑顔を守るために
「瑠唯…?」

「………」

瑠唯は俯いて唇を噛み締め、何も言わない。

山川はテーブルに置かれた瑠唯の手をそっと握り締めて

「瑠唯…顔を上げて…僕を見て。大野先生がオペを執刀した。だから…約束だよ…返事を聞かせて。」

瑠唯はそっと顔を上げ山川の目を見る。そして一度口を開いて…直ぐに閉じた。

「瑠唯…?返事を…でもその前に、君の話しを聞かせて。」

山川は瑠唯の手を握った手に力を込める。

瑠唯が意を決した様に口を開いた。

「修司さん、私…今日、髙山院長に辞表を出して来ました。」

山川はさして驚かない。ただ、手を握り締めてじっと瑠唯の目を見ていた。

「修司さんの事は好きで…本当に好きで…今直ぐにでも縋り付いてしまいたいくらい好きです。」

瑠唯は少しだけ視線をそらし、そして直ぐにそれを戻す。

「それでも、どうしても…どうしても私は、アメリカで小児科の臨床を積んできたいんです。そして、小児外科の専門医になりたい。我儘なのは自覚しています。自分勝手だとも思います。でも私…それでも行きたい。」

「なら籍を入れて…山川瑠唯として行っておいで。」

「それは…出来ません!」

瑠唯は今度こそ山川の目をしっかりと見据えた。

「それは…何故?」

「逃げる道を作りたくないから…それに…修司さんにこれ以上待っててなんて言えない。」

「どうして?君が言えば僕は…五年でも十年でも待つよ。」

「そんなの駄目です。修司さんは、山川医院の息子さんで、これから何処かの大学病院の准教授になって、いずれ教授になって、今よりもっと忙しくなって…だから…優しくて家庭的な女性と家庭を持って、疲れた身体を癒してくれるような女性と…」

瑠唯の瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。それを山川が手をのばして拭う。

「君はまだ、わかってない。僕の心と身体を癒すのは君だけだ。僕に取って君は…生涯、唯一無二の女性なんだよ。」

「先生…なんで…そこまで…」

「そんなの僕にだってわからないよ。」

瑠唯の目からは、益々涙が溢れ出す。これ程彼女が涙を流すのは、おそらく両親を失って以来初めての事だ。葬儀の時でさえ泣かなかった…いや…泣けなかったのだ。
なのに今は、後から後から涙が溢れて止まらない。

「わ、私…家事だって全然出来ないし、急患の…知らせで、どんな…事してても…飛び出して言っちゃうし…もしも結婚して、子供が生まれても…ちゃんと育てていけるかどうか…わからない…それなのに、どうして…どうして先生は…私の事…そんなに大事にしてくれるんですか…?」

「君を…愛してるから。僕はもう…君がいなくちゃ生きて行けない。君が何かを決心したのは何となく感じていた。でもそんな事どうでもいいんだ。君が世界中の何処にいて、何をしててもいいんだ。ただ、君の心が欲しい…ただそれだけだ。それに…僕の育った家庭もそうだったよ。僕の父は脳外科医で、母は小児外科医だ。子供の頃から急患で呼び出される両親を何時も兄弟三人で待ってた。もちろん、お手伝いさんとかはいたよ。でも…学校行事に親が来たことは、覚えている限り一度もない。そりゃぁ小さい頃はそんな両親に反発したこともあったさ。でも兄も姉も…そして僕も、どんな時にも患者さんに誠意を尽くす両親を心から尊敬している。それに、君だって、君のお母さんだって…おそらく多忙であったろう大河原教授の事を嫌いだったかい?」

瑠唯は大きく首を横に振った。

「医師は神様じゃない。全ての人を救うなんて事は無理だし、そんな奢った考えは持つべきじゃない。でも…一人でも多くの患者さんを救おうとするその誠意は尊いものだと…僕はそう思う。」

「はい…はい…はい…」

瑠唯は何度も何度も頷いた。

「さあ…僕の部屋に帰ろう。花束を持って。ケーキはテイクアウトにしてもらおう。ああ…それから手を出して。」

しかし瑠唯は首を横に振る。
そして大事そうにその箱を持ち上げて山川に渡した。

「これは、先生が預かっていて下さい…私が戻るまで…私…必ずここに戻ってきますから…先生のもとに…」

山川は立ち上がると瑠唯を抱き寄せ、耳元で囁く。

「帰ろう。今夜は離さない。何度も先生って言ったしね。」

そう言うと優しく口付けた。



三月初めの日曜日…春の晴れ渡った空の元…瑠唯は山川に見送られ、成田空港からアメリカに向けて旅立って行った。




to be continue…
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