愛されるだけではだめよ

壊れた幸せ


 彼は真面目な人だった。
 努力家の人だった。

 感情はあまり表に出さず、常に自分を律している人であった。正しくあろうとして、困っている人に手を貸すことを躊躇わない、人格者とも言えた。

 少なくとも、私は彼女の話を聞くまではそう思っていた。

 彼は私を婚約者として尊重し、愛してくれていると。

 実際、彼は私には勿体ないくらいできた相手だった。身分も、容姿も、性格も。

 親の紹介で偶然出会っただけだが、私はあっという間に彼に恋に落ちた。こんなすてきな人と結婚できるなんて、なんて自分は幸せ者だろうと、馬鹿みたいに喜んだ。神様に感謝した。

 それがまさか捨てられるなんて、思いもしなかった。

 私は荒れた。体中の水分がなくなってしまいそうなほど、涙を流した。彼を恨んだ。それ以上に彼の心を奪った女を恨んだ。殺したいくらい憎いと思った。嫉妬で自分が狂ってしまいそうだった。

 彼女は確かに可哀そうな女性だ。でも、だからって人の婚約者を奪わなくてもいいじゃないか。

 女の嫉妬は恐ろしい。同じ女だから彼女がこんなにも憎いのだろうか、それとも彼女がそうさせているのか。

 もしも私が女ではなく、男だったら――あるいは彼女が主人公の物語を読んでいれば、少しでも彼女に対する気持ちは変わっていたことだろう。

 今まで苦労しましたね、素敵な男性と出会えてよかったですね、これからはうんと幸せになってください、と心の底から同情して、祝福できた。

 でも、私はその男性の婚約者で、奪われた側だった。

 今までは彼女も安寧や居場所を奪われた側だったかもしれないが、今度は奪った側になったのだ。いや、男を奪うという点においては彼女は変わらず奪い続ける側だった。そう思うと、よけいに憎らしく、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。

 もうこれ以上の地獄はない。しかし現実はもっと残酷だった。

 男爵令嬢は美しい女性だった。世間からすれば、彼女は可哀そうな女性で、幸せになるべき女性だった。

 彼と彼女の結婚は、社交界を賑わせた。美しく哀れな令嬢が一人の誠実な若者に助けられ、求婚される。まるで物語のように互いに惹かれあい、結ばれた恋人たち。

 前後の詳しい事情はすっぽりと抜け落ち、そこだけが綺麗に切り取られて、注目された。

 彼女は今や男爵令嬢という肩身の狭い令嬢としてではなく、伯爵夫人という立派な肩書きを手にいれた。

 彼は彼女を愛した。その愛は激しく、時に品のない噂として私の耳に届くこともあった。その度に私の心は砕かれ、身を引き裂くほどの苦しみを味わった。

 彼の溺愛ぶりは、その後もたびたび話の種としてからかわれた。二人は子どもを産み、いずれは幸せな家族を築くだろうと誰もがそう思っていた。

 だがそうはならなかった。

 ある日乗馬をしていた際、彼が落馬したのだ。あまりにも突然の出来事だった。一緒にいた彼女は気が動転してしまい、すっかり女主人としての振る舞いを忘れて取り乱した。従者が駆けつけ、他の使用人を呼ぶ中、ただ泣きながら苦しむ彼に縋った。

 一生立って歩くことはできない。子どもを作ることも不可能だろう。

 医者にそう宣告された時、彼女は泣き崩れた。彼は呆然としたまま、しばらく一人にしてくれと妻を下がらせた。

 きっと何かの間違いだと、二人はそう思いたかった。
 悪い夢を見ているに違いないと。

 けれど何日過ぎても、彼はベッドから起き上がることができなかった。彼女はそんな夫と生きていかなければならなかった。

 二人はようやく現実を受け止めることにした。

 彼は医者から宣告されても、諦めることはしなかった。どうにかして歩けるようにすると、そう自分を奮い立たせた。

 何度も、何度も、動かなくなった己の下半身に力を込めた。歩いてくれと命令した。

 だが結果は自分の無力さを痛感するだけ。

 今までは当たり前にできていたことが突然できなくなる。不安や苛立ち、その他様々な感情が彼を襲った。彼は妻に八つ当たりした。あんなにも頑なに自分を律していた人が、感情の赴くままに自分をさらけ出した。彼女はひどく動揺した。だがそれは一時の感情だと、必死に我慢した。

 何かに対して怒り続けることは、ひどく体力を消耗する。

 彼はやがて怒ることをやめ、無気力になっていった。淡白な返事は何を考えているかわからず、相手を不安にさせ、虚ろな目は妻を気味悪がらせた。

 しだいに彼女が彼のもとへ訪れる回数は減り、顔を見合わせることも、数えるほどになっていった。世話することも、車椅子を押してやることも、声をかけることも、彼女は放棄した。

 彼を愛することさえ――

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