愛されるだけではだめよ

愛すること


 さあどうぞ、と私は彼女のために場所を空けてやった。

 一歩、彼女が踏み出す。ごくりと唾を飲み込み、愛しの旦那様へと手を伸ばす。

 それを待っていたかのように、彼の目がかっと開かれた。

「ああ、ああ……誰か! 影が、私を捕らえようと追ってくるのだ。助けてくれ、助けてくれ!」

 宙を見つめ、大声で叫ぶ姿は、見る者を不安にさせる異様さがあった。さあっと血色のよかった彼女の顔から血の気がひいていく様を、私はじっと見つめてた。

 無意識に遠ざかろうとする彼女に、あら、とわざとらしく声をかける。

「どうしましたの、奥様。あなたの愛しい旦那様ですよ」

 すると、先ほどまで怯えていた彼女が、はっとしたように彼の手を掴んだ。

「旦那さま! しっかり……しっかりなさってください。あの時のあなたは、いったいどこへ行ってしまわれたのですかっ」

 涙で声を震わせ、必死に彼女は自分の夫へ訴える。どうか正気に戻ってくれと。若く、生きる気力に満ちていたあの頃の彼に戻ってくれと。

 その言葉に、私は内心ほくそ笑んだ。

 この子は知らないのだ。彼が嘘や見栄で今まで自分を作り上げてきたことを。何かのきっかけで、脆く崩れてしまうことを。

 才能や若さがあったからこそ、何でもできると彼は自分に自信を持てていた。努力が実り、仕事で成果を出し、美しい女を愛することができ、自分は何でもできると錯覚した。

 そんな彼に、美しい娘は愛されるだけでよかった。

 疑うことなど、支えてやる必要など、どこにもなかった!

 だからこそ、今の状況は彼女にとって地獄だ。受け入れることなどできないだろう。信じたくないはずだ。目の前にいるのは自分の夫ではないと言われた方が、まだ納得できるかもしれない。

「お願い! 元に戻ってください。あの時の旦那さまに!」

 今まで自分が見てきた彼こそが、本当の彼だと信じきっている。いや、そうであって欲しいと願っている。

 胸元にしがみつく妻を、夫はただ困惑したように見つめている。彼女が何を言っているのか、まるでわからないというように。

「なぜそんなことを言う。私に求めるな。指図するな。頼ろうとするな! お前は私の敵か!?」

 錯乱した彼は、まるで古の王のような話ぶりだ。彼女は狼狽した様子で慌てて首を振った。

「いいえ、決して、そのようなことはっ」
「……では私の闇を受けとめ、支えてくれるか?」

 ぞっとするような暗い目が、女に縋ろうとする。

「それは……」

 彼女の目に迷いが生じたのを、彼も、私も、見逃さなかった。彼は失望の色を隠そうともせず、彼女に言った。

「……あなたは、私を助けてはくれないのだな。私はかつてぼろぼろのあなたを助けてやったというのに……結局他のやつらと同じだ。強い私しか必要としていない」

 もう出て行ってくれ、と彼は彼女から逃れるように目を閉じた。彼女ははっと正気に返り、その身体を揺さぶった。

「旦那さま。あなた! 目を開けて下さい! お願いです。私をもう一度愛してください!」

 だが彼が目を開けることは二度となかった。先ほどのやり取りで、疲れ果ててしまったようにも見えた。

 結局、彼女の美貌は何の役にも立たなかった。出会った当初は魅了してやまなかった笑顔も、肉欲を誘う淫らな体も、今の彼の前では、ただの脂肪の塊だった。

 途方に暮れた彼女は、恨みがましい目で私を見た。まるで彼がこうなったのはすべて私のせいだというように。

 憐れみの表情を浮かべ、私は彼女に優しく教えてやった。

「あなたはたしかに彼に愛されていたでしょうね。でもその逆は無理なのよ。どんな姿になっても、どんな惨めな性格になろうと、あなたが彼を愛することはできない。あなたには、決してできないのよ」

 帰りなさい、と私は優しく言った。

 ここにいても、彼女ができることは何もない。その機会は永遠に失われてしまった。

 彼女は屈辱に満ちた表情を浮かべ、彼が引き留めてくれることを期待するように何度も振り返った。

 それでもその期待が応えられることはなく、彼の目は閉じられたまま。諦めた彼女はやがてひっそりと部屋を出て行ったのだった。


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