愛されるだけではだめよ
弱さ
一度情けない姿を見せた相手は特別だ。それが彼のように、常に自分を律してきた性格の人間ならばなおさら。
そう。彼は、本当はとても脆い人だった。泣き崩れ、私にすがる姿は、子どものようだった。
恐怖や弱さに己を支配され、苦しみを取り去ってくれと泣きつく姿。とっくに成人している男性が、弱みをみせてはいけないと教えられてきた女に行かないでくれと助けを請う姿。そうしたすべてが、これまでの彼の姿をがらりと変えた。
人というものはどんなに立派に見えても、脆い所がある。子が母親に甘えるように、恥も外聞も捨てて、抱き着きたくなる時がある。
地位や権力があり、プライドが高い男性ほど、その欲求は高いのかもしれない。彼らは一家の主として頼られることはあるが、その逆はあってはならない。決して他人には弱さを見せてはいけないと、周囲に期待され、幼い頃からそう教育されてきたから。
けれど本当は、彼らだって求めている。心の奥底では、誰かに甘えたい。情けない姿を無条件に受け止めてくれる相手を欲しているのだ。
おそらくその満たされぬ欲求が、時折不倫や狂ったような恋で実現されてしまうのだろう。普段の自分を知っている人には決して見せることができない面を、赤の他人には見せることができる。
彼もそうした人間の一人だった。
落馬という不幸な事故で、若くして身体を壊したこと。美しい妻がいながら子を作れぬ身体になってしまったこと。他人の力を借りねば生活できなくなったこと。愛していた妻が自分を見捨てて逃げてしまったこと。
きっかけはたくさんあった。
到底一人では抱えきれぬほどの苦しみを、彼は背負ってしまった。そんな時に、かつての婚約者であった私がたまたま現れた。
彼は私に甘えた。恥も外聞もなく、弱みを見せた。落ち着いた日もあるかと思えば、うんと気分が沈むこともある。涙を流し、感情の赴くままに喚きたてることも。私は彼の気持ちに引っ張られないよう、常に一歩引いた所に自分を置き、彼を慰めた。
それは非常に骨が折れることであったが、彼が取り乱すほど、自分は冷静であらねばならないとかえって心が落ち着いた。
そんなことが数年続いて、ようやく彼の精神は落ち着いたようにみえた。実際は、発作的に深い沼底へ引きずり込まれていくことを忘れてはならない。闇はいつだって、彼を呑み込もうと待ち構えている。
「今まで、どうもありがとうございました」
以前より体調が良くなったことを人伝に聞いた彼の妻が、久しぶりに屋敷へ帰ってきた。夫婦生活などとっくの昔に途絶えていたのに、彼女はつい数時間前と変わらぬ様子で最愛の妻を演じた。
久しぶりに見た彼女は相変わらず美しかったが、その美しさは、いまやどこか幼さが残る幼稚なものに見えた。
「あなたには感謝しています。これからは私が旦那さまの面倒を見ますわ」
自信満々に告げる彼女に、私は思わず笑ってしまった。とたんに彼女は目を吊り上げてこちらを睨む。顔が整っているだけに、怒ると迫力があった。
「何がおかしいのですか」
「ごめんなさいね。あなたがちっとも彼のことを、ご存知ではないものだから」
私の何気なく言ったつもりの言葉は美しい夫人のプライドを傷つけるには十分な威力を発揮したらしい。顔を強張らせた彼女は、鋭い視線を私に向けてくる。
「私が旦那さまのことをご存知ではないと?」
「ええ。だって部屋に入ったあなたは、自分の夫を見てひどく動揺したでしょう?」
ぎくりとする彼女をよそに、私は安らかに眠っている彼にそっと目をやった。
この数年でずいぶんと痩せてしまった。あの強くて逞しい面影は、今の彼にはない。長いこと会っていなかった彼女が動揺するのも無理はなかった。
「あなたが愛されていたのは、彼が自信満々の時ね。その時の彼は、権力も、金も、肉体も、何もかも最高のものを誇っていた。ああ、あと愛する女もね」
私の言葉に、彼女は訝しげに眉を寄せる。私が何を言おうとしているのか、わからないのだろう。
ああ、彼女はどんな反応をするのだろう。高揚する気持ちを抑え、私はくだけた調子で言ってみる。
「でも、今の彼を果たしてあなたが愛せるかしら」
「もちろんです。私にも、きちんと愛せますわ」
そう、と私は唇を吊り上げる。
「では、試してみなさいな」