バー・アンバー 第一巻

文化村通りを疾走

少なからず萎縮する俺の様子を見てとると今度はわざとらしく両の手を合わせて俺に合掌して見せ「このまま少々お待ちを」と云い残し、ママに目配せをしたあと素早く身をひるがえして表へと、ドアを叩きつけるように閉めて出て行った。一瞬二瞬躊躇したがミキを思えば居たたまれず、またアイツを、先生とやらを、さらには車のナンバーをも確認しようとして俺も外に出ようとする。しかしママが素早く立ち塞がってガチャリとばかりドアのサムターンをまわしてしまう。「ねえ、あんた。止した方がいいよ。悪いことは云わないからさ。あの若いもんはコレだからね」と云って人差し指で自分の頬をなぞって見せる。やかましい、このオバンと云ってママを除けようとも思うが後の再訪を思えばそれも差し控えられる。どうしようかと必死に対応を考えるうちに足元に格好の珍客を発見した。ゴキブリだ。俺はニヤリとして「ああ、そうかい。そりゃ確かに考えもんだな。だがな、ママさん、あんたの足元にいるやつも俺は相当にこわいんでね」と珍客を指し示してやった。「ひっ」とばかり怯むママさんをていよく脇に押しやると俺はサムターンをまわして脱兎のごとくに表に飛び出した。路地の左右を素早く見まわすと右側の、渋谷センター街から文化村大通りに抜ける一通に止めてあった車が今しも発車したところだった。それを追って駆け出すが車は文化村大通りをもう左折しようとしている。車が斜めでナンバーが読めない。俺は年甲斐もなく猛ダッシュして文化村通りに出、その歩道を道元坂下信号に向かう車を追って駆けて行く。如何せんその道元坂下の信号は車に青だ。歩行者たちを懸命にかわしながら追いすがり遠退く車のナンバーを必死に読む。練馬ナンバー✕✕✕✕、そして後部シートに座る二人を見る。右側にいるミキに何事かを語りかけている男の横顔は…アイツだ。釣銭を持って入って来た紛うことなきあの黒メガネをかけた初老の男。かろうじてそれを確認したところで俺は通行人に突き飛ばされ歩道に転がった。アベックの男から「てめえ、こんなところを走るんじゃねえよ!」女から「キャっ、かわいそ」とか其々怒鳴られおちょくられた俺はしかし「す、すいません。ごめんなさい」とただ平謝りする。アベックにぶつかりそうになったので俺は直前にかわしたのだがそれなのに男があえて突き飛ばしたのだった。しかしミキとの奇跡の邂逅をし、その後のスリリングでサスペンスな展開を思えばこんな粋がったアベックに構うつもりなどなかった。俺は立ち上がってなおも眼づけする男に何度も謝ったあと道玄坂スクランブル交差点をめざして歩いて行った…。
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