傾国の落日~後宮のアザミは復讐の棘を孕む

 皇城の瑠璃瓦を、落日の陽光が朱く染めていた。
 城門を取り囲んで翻える旗幟(きし)は青く、この国が貴ぶ黄色ではなかった。
 風に乗って、きな臭い煙と火の粉が飛んでくる。誰かが宮殿に火を放ったらしい。
「母上……!」
 黄色い円領袍を着た少年が、不安げに母を仰ぎ見る。胸には五爪龍の豪華な刺繍。――龍袍だ。その声に振り向いた母の、黒髪に挿した黄金の歩揺が光を弾いてきらりと輝いた。
「大丈夫よ……偉祥……母様はずっといっしょだから」
 いつもと変わらぬ紫紅の声に、少年はただ、母の手にぎゅっと縋り付く。
「でも……火事が……」
「この広い宮殿のすべてを焼くことなんてできっこないわ」 
 すでに、官庁街にあたる皇城は賊軍によって制圧されてしまい、皇帝の住まいである宮城の門に迫っていた。行くあてのある者は昨夜のうちに全員、逃げ出してしまい、行き場もない者たちがなすすべもなく、右往左往するばかり。陥落寸前の宮城内は混乱の中にあったが、後宮の最奥の宮は人影もまばらであった。――ここは、歴代皇帝を祀る最も神聖な霊廟で、母子に従うのは宦官がたった二人。紫紅と息子・偉祥の死出の旅路の、最後の伴を志したのだ。
「太后娘娘、そろそろ朱明門が破られたころでございます。お早く……」
 宦官にしては背の高い偉丈夫の、太監の徐公公が紫紅を促す。
「ええ……偉祥、あと少しだから、頑張って」
 まだ物心つかぬうちに即位した幼帝は、長い距離を歩いたこともない。紫紅は少し息を荒げている息子を励ました。
 四人は足を速め、最も奥にある太祖廟にたどりつくと、紫紅は幼帝を始祖皇帝の位牌の前に導く。幼帝もこの場所の意味は理解しており、おとなしく位牌の前に据えられた礼拝用の(ざぶとん)に跪いた。
 徐公公が持ってきた酒を位牌の前の床に少し零し、残りを壺のまま捧げる。花の香のような馥郁とした酒の香が立ち上り、もう一人の宦官が横の銅鑼を鳴らす。
 ゴーン……
「さあ、お祈りいたしましょう。始祖皇帝陛下と、それから、お父様に……」
「うん……」
「長く我々をお守りいただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 四人はその場で額ずいて、頭を下げる。
「次はお父様に……」
 もう一人の宦官が始祖皇帝の位牌の横に並ぶ、先代皇帝の位牌を取りに行こうとしたが、だが、紫紅は薄く微笑んで首を振った。
「必要ないわ。偉祥のお父様の位牌なら、わたしが抱いてきたから。これが、お前の本当のお父様、伯祥様のご位牌よ」
 そう言って、紫紅は胸に抱くように抱えてきた包みから、小さな素朴な位牌を並べた。
「……これが、お父様?」
 首を傾げる少年に、紫紅は微笑んで見せる。
「さあ、お祈りして、それからお父様のところに行きましょう。――ずいぶん長いことかかったけれど、ようやく、お会いできるわ」
 もう一度、額ずいて祈る母子の横で、徐公公は懐から出した散薬を酒に混ぜ、もう一人の宦官が堂内を回って杯を四つ、集めてきた。
 風に乗って、宮殿を焼く炎が霊廟に迫っていた。
 徐公公から渡された杯を手にして、紫紅はふと、廟の入り口を見る。すでに陽は沈み、夜だというのに外は妙に明るい。
 炎が朱く周囲を照らしているのだ。
 ――紅いぼんぼりをいくつも照らした、婚礼の夜も、こんな風に明るかった――

 紫紅は杯を一気に呷ると目を閉じる。
 ――ずっと愛していたわ。生涯、愛したのは貴方一人。一日たりとも、忘れたことはない。
 ようやく、あの方のもとに――
 
 紫紅の脳裏には、もっとも幸せだった婚礼の夜の情景が蘇った。
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