桜ふたたび 後編

❀ ❀ ❀


部屋に駆け込んだ澪は、洗面所へ飛び込み、顔が歪みそうな勢いで唇を擦った。

──何てひとだろう!

何度拭っても、キスの記憶は流せない。
今度は胃の奥から吐き気が迫り上がってきて、洗面台ボウルに顔を突っ込んだ。
胃のなかが空っぽで、出てくるものは苦さだけ。

食欲がなく、それでも栄養を取らなければと、無理やり口にしてみるけれど、食べたそばからリバースしてしまうのだから、どうしようもない。

涙目を上げたとたん、立ち眩みに襲われた。
澪は両耳を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

急に走ったのがいけなかった。おなかの子が吃驚したのだ。

──ごめんね……。

労るように腹をさすったとき、バッグの中のスマホが鳴った。

〈澪〉

──ああ、やっぱり、好きな響き。

この声を聞くだけでホッとして、涙がこみ上げてくる。

〈元気か?〉

「はい。……ジェイは?」

澪は洗面台に手をかけて、よろめきながら立ち上がった。
冷たい汗が、こめかみを伝って床に落ちた。

〈うん、元気だ〉

その声は、疲れていた。

「今、どちらですか?」

〈パリ〉

──パリは、夜明けか。

と、計算したとき、

〈澪〉

苦しげな声がした。
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