桜ふたたび　後編

2、野分

マンションの正門で、澪はふと空を仰いだ。

太陽は沈んでいるのに、木立の上の空は明るい水色だ。
天頂は、不思議な色の鱗雲に埋め尽くされている。一片一片、黄金から茜色にグラデーションを描いた様子は、まるで幻想的な龍の背。
噎せ返るような金木犀の香りが、異次元へ誘うようで、すっと意識が遠のいた。

──いけない。

澪は呼吸を整えて、渇いた唇を舐めた。

ようやくつわりがおさまったものの、体調はむしろ悪化していた。
ときおり下腹部に鈍い痛みが走り、今朝は少し出血もあった。
無理してサロンへ行く必要もなかったのにと、今さら後悔しても後の祭りだ。

「ヨッ！」

植え込みの陰から片手を挙げて現れた辻に、澪は目もくれず言った。

「人を呼びますよ」

「冷たいなぁ。キスまでした仲なのに」

「あなたが勝手にしたんです」

「君に唇を噛まれて、飯もろくに食えなかった。お詫びに夕飯、つき合ってよ」

両手を頭の後ろに組み、戯けた様子で行く手を塞ぐ。

「それ以上近づいたら、ほんとうに声を上げます」

澪に凄まれ、辻は吃驚したように、「ＯＫ、ＯＫ」と諸手を挙げた。
これで諦めたと思ったら、脇を抜けて行く澪の背中に、不意打ちにボールを当てるように彼は言った。

「あいつ、婚約したんだって？」

風除室の真ん中で、澪の足が止まった。
< 124 / 270 >
表紙・目次

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop