桜ふたたび 後編

観世音菩薩を照らす火影が、老師の体を大きく揺らす。
突然、けたたましい鳥の声がして、澪が驚いたように顔を上げた。

それは、母親が嬰児を抱いている構図だった。
繊細な彫りは熟練の手によるものだろう。伏し目がちな眼差し、柔らかな輪郭、風になびく髪。無垢な寝顔を見つめる横顔は慈愛に満ちて、ラファエロの聖母子像を彷彿とさせる。

「瑪瑙には魔除けの意味があるがじゃね」

「だから何だ」と、裏を返して、一驚した。

台の中央にポセイドーンの刻印が打ってある。
ジェノヴァの屋敷のペディメントのレリーフ、アルフレックス家が簒奪した紋章。
これを贈れる人物は、ただ一人しかいない。

しかし、死んだ妻が昔の男からもらった物を、なぜ後生大事に保管していたのか、理解できない。
売るなり捨てるなり、勝手にしてくれたらいい。これなら、宝飾品の粋を越え、美術品としてもかなりの値がつくだろう。
もし、坂本にその気があれば、これと引き替えに、弔慰金という名目の口止め料を請求することもできたはずだ。

「私には、いただく理由がありません」

ジェイは素っ気なく、袱紗の上にカメオを戻した。
墓に眠る人物との関係には、一言も触れていない。幼少期の写真だけで同一人物だと判断するのは、尚早すぎるだろう。

「全ては在るべき處に帰する」

老師の静かな声が低く響いた。

「物にも意思というものがありましてな、みな在るべき處を捜しゆーのや。どいて己がこの世に生を受けたがか、伝えるために」

「仰っている意味がわかりません」

「裏に文字が刻まれちゅーですろう」

指摘されて、ジェイはもう一度カメオを手に取り、裏を返した。

確かに、ポセイドーンの刻印の下に、小さくラテン語が刻まれている。

──Pro futuro filius noster. Deus benedicat.
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