桜ふたたび 後編

「坂本さんは、ちんまい頃から短気で、喧嘩が絶えん男やって、ぎっちり居場所を無うしちょった。
そがな男にも、優しゅう声をかけてくれる、御仏のようなおなごがおったのや。まあ、こやつの初恋じゃのぉ。
やけんど、そのおなごには、心底好いた男がおった」

「何が言いたいのか」と言わんばかりの顔に、臈長けた老師はほくほくと笑う。

「ここからは、おまさんの役目や」

それまで口をへの字に結んでいた坂本が、目を上げ静かに頷いた。
そして訥々と語り始める。

「志埜は……、高知の名料亭の一人娘でした。十二のときに母親が心臓病で亡くなり、ほどなく父親が多額の借金を抱えて、自ら命を絶ちました。それからは親戚をたらい回しにされ、ようやく十五のとき、遠縁の祇園の置屋の女将が、養女に迎入れてくれたのです。
置屋に引き取られたと言うても、女将は志埜を芸妓にしようとは思おておらんかった。自分の代で廃業すると、言うておられましたから」

低く落ち着いた声。飾り気のない誠実な語り口は、脳よりも腹の底に届く。
今までモノクロ写真だった人物が、徐々に色をつけはじめたような気がした。

「志埜は、やさしく穏やかやったが、根は〝はちきん〞と呼ばれる男勝りの土佐の女です。芸妓になったんは、女将への恩義のためだけやなく、おとなの事情で振り回された人生を、己の力で切り拓きたかったのやと言うておりました。
行儀作法に厳しい家で育ち、幼い頃から芸事にも通じておりましたし、生来器用で、それほどの覚悟もありましたから、じきに座敷でも売れっ子となりました」

ぼやけていた輪郭が、はっきりとしてくる。
金のために拒むこともできず愛人となり、流されるまま子を身ごもり、男の言いなりに子どもを手放す──そんな、主体性のない弱い女だと想像していたが、事実は芯の通った才智のひとだったのだ。

「一本立ちしてほどなく、志埜は子を授かりました。一緒にはなれん相手でしたが、互いに覚悟の上やったようです。
〈花街の子は、花街が育てるものやから、心配いらん〉と、女将の後押しもあって、志埜は華やかな表から身を引き、地方として座敷を続けました。
地方と言うのは、三味線や鼓でお囃子を演奏したり、唄を担当する裏方です。ことに、志埜の篠笛は格別でした」

昨日のことのように懐かしげに語っていた顔に、ふと影が落ちた。
< 166 / 270 >

この作品をシェア

pagetop