桜ふたたび 後編
Ⅹ 消えた花嫁

1、サムシングフォー

寝むれぬベッドを抜け出して、澪は月影に誘われるままロッジアへ向かった。

雲ひとつない夜空に、十六夜の月が出ている。豊かな月光が、芝庭の木や花や建物を秘やかに浮かび上がらせ、海の上に煌めく帯を紡いでいた。

ニューヨークでジェイと再会して、瞬く間に四ヶ月が過ぎていた。

襲撃事件のあと、澪はマダム・ネリィの指示で慌ただしく東京を逃れた。
柏木夫妻はむろんのこと、外務省に手を回してくれた葵、バハマ空港で囮になってくれた涼子、プライベートジェットでニューヨークへ送ってくれたアブドラ王子、ロングビーチの屋敷に匿ってくれたエリカ、不安になる澪を毎日励ましてくれたヒデ、多くの人たちの尽力で、今こうしてジェノヴァの屋敷に身を寄せている。

さすがのジェイも気が引けたのか、当初はホテルに宿泊していたのだけれど、エヴァの強引な招きで丘の屋敷に移ることになった。
お家騒動など彼女には蝸牛角上の争いに過ぎないみたい。ある意味、一番肝が据わっている。

AXではフェディーとマティーが引退し、AXホールディングスCEO兼取締役会会長には筆頭独立社外取締役が指名された。

これがジェイにとって正解だったのか、澪にはわからない。
はじめからアルフレックス家の転覆を望んではいなかっただろう。
ときおり彼が遠い目をするのは、後悔があるのかもしれない。

ジェイは、ニューヨークにコンサルティングファーム「J&A」を設立した。
アブドラはジェイをSAMに引き入れようと画策していたのだけれど、彼が先手を打ってAXとパートナーシップを結んでいたので、大株主としては独占を断念せざるを得なかったのだと、どこから仕入れてくるのかシモーネが教えてくれた。

ジェイは、週末ごとに、空を翔て逢いに来る。

ふたりでイタリア・カソリックの結婚に欠かせない結婚準備講座(正しい結婚生活を送るための訓え)を受けるため教会へ出かけ、丘の上のパーゴラで時間を忘れて語り合い、モンティに習いながら作った料理を家族で囲み、そして24時間後、彼は名残惜しげに再び機上の人となる。

そんな生活も、今日で終わる。
明日、澪はジャンルカ・アルフレックスの妻になる。

幸せ過ぎると怖くなるのは、澪の悪い癖だ。見透かしたようにジェイは言う。

〈努力をしなければ、幸せはすぐに逃げてしまう。掌を握りしめて、しっかり掴んでおきなさい〉

愛するひとに大切に愛されて、彼が幸せに微笑むことが、澪の幸せ。
そして、澪が幸せに微笑むことが、彼の幸せ。
この幸せを、ふたりで守ってゆきたい。

澪は胸の前で右手を握りしめた。
指の隙間から幸せが逃げ出さないように左手で包み込み、そして大きく息を吸い込む。

──主よ、感謝します。

月の精がたおやかに微笑んで、明日の花嫁の頬に幸せの鱗粉を撒いていった。
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