新人洗濯係がのぞいた秘め事~王太子の秘密を暴いた先にあるのは溺愛か死か~
セルロワ王国の王宮専用の狭い洗濯室は今日も暑かった。洗濯のために湯をわかすから、ここはいつも暑いのだ。真夏の現在、そこはまるで地獄のようだった。
汗をかきながら忙しく働く女たちの中、新人のリエーヌ・ルジャンもまた一生懸命に働いていた。亜麻色の髪を後ろで一つに結んでいるが、後れ毛がはりついて気持ち悪かった。
次の洗濯物をとりあげ、ふと手を止めた。緑の瞳に疑問が浮かぶ。妙に汚れている気がした。
「アデリーンさん、これは」
先輩のおばさん洗濯係、アデリーン・ルクティエンにそれを見せた。
「ああ、銀糸の刺繍があるから、それはこっちにしておくかね」
アデリーンは迷いなく手洗いの方にそれを仕分けた。
彼女はベテランだ。だんなさんは兵士で、家族用の宿舎に住んでいる。
「王太子殿下のとこのシーツだね。新婚さんだから激しいのかしらね」
アデリーンの言葉に、リエーヌは顔を赤くした。
「ウブだね、あんた。16歳ならもう縁談も来る歳だろうに。王太子妃様と同じ年なんだし」
アデリーンはカラカラと笑った。
20歳の王太子、ルネスラン・オージェル・クーブレールは最近結婚したばかりだった。
優しい王太子殿下はその妃を溺愛しているともっぱらの噂だった。
リエーヌも遠めにその姿を見たことがあった。ダークブロンドの髪に水色の瞳。凛々しくて、誰もが憧れる王子そのものの姿だった。
王太子妃は美しい少女だった。同じ年とは思えない。美しい黒髪に若葉のような緑の瞳。華奢なのに胸が大きくてうらやましかった。
寄り添い合う二人はまさにリエーヌの理想だった。
「いいわよね、王太子様と結婚って」
ほかの洗濯係がうっとりと言う。
「金髪は威厳があって、瞳が湖のように美しくって」
「かっこよくって優しくって頭もよくて、完璧!」
「男爵令嬢が王太子様と結婚って、やっぱり身分が高い人同士でないと王太子とは結婚できないのね」
「違うわよ、男爵は貴族の中でも身分が低いのよ」
「それなのに結婚したんだからすごいのよ」
「お名前は確か、ジャスリーン様よね」
「すっごい溺愛されて、プロポーズされたんですって! 王太子様は王様に、結婚できなければ国を出て行く! ってタンカ切ったんですって。素敵!」
わいわいと話に花が咲く。
「はいはい、手が止まってるわよ」
アデリーンの注意に、はーい、と女たちはまた仕事に戻る。
が、またすぐに王太子の話を始める。
この前見かけたの。すっごいかっこよかった。
王太子妃様を見つめて、微笑んで。
理想の夫婦だわ。
それらを、リエーヌはうらやましい気持ちで聞いていた。
もし私が王子――は結婚してしまったから、貴族に見初められたら、そんな幸せなことはないだろうに。
うっとりと考える。
思い浮かべる貴族はもちろん若い美男子だ。金髪で背が高くてすらっとしていて。
身分なんか関係ない、なんて抱き寄せられたりして。
ただでさえ部屋が暑いのに、リエーヌの顔はさらに熱くなった。
* * *
洗濯ものは毎日王宮から馬車で洗濯室に届く。
洗濯室は水車に併設されていて、王宮からは距離がある。
そこには洗濯をする部屋と乾燥室、アイロン室がある。
メインの洗濯室は水はけをよくするために床がわずかに傾斜している。
初めはそれに慣れなくて、めまいのようにぐらついて転びそうになることが何度もあった。
洗濯ははじめに手洗いとそれ以外にわける。
シルクとリネンは手洗い。綿は基本的には洗濯用の樽の中へ。
洗濯用の樽は人の腰ほどの高さがある。洗濯物を放り込んだらお湯と石鹸を入れて洗濯棒で攪拌する。洗濯棒は取っ手がついており、その先端は6本に枝分かれしている。その取っ手を回して洗うのだから、けっこうな力が必要だった。
洗ったらローラーで水を絞る。これも重労働だ。
汚れがひどいものはサボンソウからとったエキスで手洗いする。サボンソウはナデシコ科の植物で、その葉っぱを水に入れてを揉むと泡立つため昔は石鹸として使ったという。サボンソウは薬にもなるが毒にもなるので、エキスの扱いは気を付けなくてはならない。
「ねえ、知ってる? 大昔はおしっこを発酵させて洗濯に使ったんだって」
若い先輩の洗濯係に言われて、リエーヌはドン引きした。
「本当ですか?」
「私も最初に聞いたとき驚いたわ。ダニよけのためにトイレに洗濯物を干してた時代もあったんだって」
「そんな時代に生まれなくて良かったわ」
「灰汁は昔から使われてたみたいだけど」
現在でもこの国では洗濯物を白く洗い上げるために灰汁は使われている。
洗濯は重労働だが、白く洗い上がると気持ちがいい。
洗ったものは外の木にかけた紐に干して、洗濯ばさみで固定する。洗濯ばさみは二本の木の枝を加工してブリキで巻いた単純な造りだった。
シーツなどは植木にふわっと置いて乾かすこともある。そのためにこのあたりの低い植木は干しやすいようにカットされている。
この国は空気が乾燥しているから、半日も干せば乾いてしまう。
乾いたら取り込んでアイロン室でアイロンだ。
アイロン台に洗濯物を置いて、木炭を中に入れたアイロンの熱でしわを伸ばしていく。
この部屋もまた暑くなるから、汗が洗濯物につかないように注意が必要だった。
だけど、ピンと皺の伸びた洗濯物を見ると気持ちがよくて、リエーヌはその瞬間が大好きだった。
* * *
数日後、リエーヌはまた洗濯物に汚れを見つけて首をかしげた。
「アデリーンさん、これ……」
この前と同じく銀糸の刺繍のあるシーツに、赤い染みができていた。
「あらあら。王太子妃様、月のものかしらね」
アデリーンはひょいとつかんで手洗いに仕分けした。
「でも……」
リエーヌはいぶかしむ。それにしては違和感がある。何か小さな塊のようなものもついていた。
そんな彼女に気付いて、アデリーンは向き直る。
「いいかい、リエーヌ。私たちは洗濯だけしていればいいの。余計な詮索はするんじゃないよ。仕事をなくすよ」
「……はい」
リエーヌは疑問を飲み込んだ。
洗濯は重労働で、嫌がられる仕事だ。
だから身分の低い庶民の彼女がこうして王宮で働くことができるのだ。
まだ幼い弟妹のためにも、彼女が働いて家族に仕送りしなくてはならない。仕事を失うわけにはいかない。
リエーヌは黙って次の洗濯物を手に取った。
* * *
人手が足りないから、手伝ってほしい。
そう言われて、リエーヌは数人の同僚と洗濯物を届けるお手伝いに王宮に行った。洗濯物自体は馬車で先行している。王宮内の各部屋に届けるお手伝いだ。
「王宮なんて久しぶり!」
「私は初めてです」
リエーヌは興奮気味に言う。
「王太子様、見れるかなあ」
「それより、独身貴族よ!」
「そんなの現実的じゃないわ。王宮勤めの独身男性にしたほうがいいわよ」
わいわいと言い合いながら歩くのは楽しかった。
30分ほど歩いていき、ようやく王宮に到着した。
それぞれ、待ち構えていた王宮の召使とともにペアになって洗濯物を持っていくことになった。
召使たちは洗濯係の女性たちよりいい服を着た女性だった。プライドが高そうでツンとしていた。彼女らも庶民とはいえ、リエーヌたちより裕福な家庭の出身の女性たちだ。
リエーヌはペアになった女性にたくさんの洗濯物を積み上げられ、前が見えなくなった。なのに召使は数枚を持っただけだった。
リエーヌは文句を言えず、黙ってあとをついて歩く。
前が見えないので、ついていくだけでも必死だった。
だから、置いて行かれたことに気が付かなかった。
だから、曲がり角で周囲を確認する余裕なんて、さらさらなかった。
曲がった瞬間に衝撃があって、洗濯物をばら撒きながら後ろに転んでしまった。
「ああ!」
短く悲鳴を上げる。せっかく洗ったのに、これでは洗い直しではないのだろうか。
「君、大丈夫?」
若い男性の柔らかな声がした。
手が差し出された。袖口には見事な刺繍と模造宝石が縫い付けられ、白いレースが覗いていた。
洗うのが大変そうな服。レースは繊細で手洗いも気を付けなくてはならない。
そんなことを思って顔を上げて、今度は心臓が悲鳴を上げた。
輝く光を背に、美しい男性が微笑んでいた。
淡い金髪は窓から差し込む日差しでキラキラと輝いていた。すっきりと整った顔が爽やかだ。暮れた空のような紫紺の瞳は優しくて、瞳に合わせたような濃紺の生地に豪華な刺繍の衣装は彼にとてもよく似合っていた。
その手をとっていいものか、迷う。
黙って彼を見つめる彼女に、彼はひざまづいた。
「立てないの? ケガをした?」
彼は心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫です」
陶然とリエーヌは答えた。
「それなら良かった。君はここで働いているのかな。どこの所属?」
「洗濯係です。ふだんは洗濯室にいて……」
そして、ハッとした。
この衣装、きっと貴族だ。
貴族にぶつかったなんて、どんなに怒られるか。
リエーヌは慌てて祈るように膝をついて両手を組み、彼に向き直った。
「申し訳ありません。お許しください」
「謝ることはないよ。君は何も悪いことをしていない。さあ、立って」
手を引っ張られ、彼のもう片方の手で背を支えられるようにして、リエーヌは立った。
「洗濯物かな。落ちてしまった……けど、今拾ったらセーフってことにならないかな?」
彼はいたずらっぽく笑う。
リエーヌはただただ見とれた。
「注意がおろそかになっていたようだけど、何か心配ごとでもあった?」
どきっとした。
王子の汚れたシーツのことが思い出された。
「何してるの!」
叱責の声がとんできた。
召使の女性の声だった。
「こんなに散らかして! ——ユリック様!」
召使の女性は慌てて頭を下げた。
「彼女は悪くないよ。私がぶつかってしまったんだ。この洗濯物、どうしよう?」
「洗いに出しますので、ご安心ください」
リエーヌはがっかりした。せっかく洗ったのに。
「彼女にだけたくさん持たせるのはかわいそうだよ」
召使の腕に抱える洗濯物を見て、彼は言った。
「いえ、今日はたまたま。気を付けます」
「そうしてあげて」
言って、彼はリエーヌに向き直る。
「私はユリック・エル・ローニャックという。君とはまた会うことになる気がするよ」
ユリックは優しく彼女に微笑みかけた。
リエーヌはぽかん、とその顔を見た。
エルはこの国では侯爵の名につく。つまり彼は侯爵だ。
じゃあね、と彼はリエーヌの心に微笑を残して歩き去った。
召使が洗濯物を早く拾えとぎゃんぎゃん言っているが、まったく耳に入らなかった。
* * *
翌日、リエーヌは一日中ため息をついていた。
アデリーンに心配されたが、なんでもないです、と答えてやりごした。
頭の中はユリックでいっぱいだった。
「素敵な人に出会ったの?」
「違います」
同僚にからかわれ、リエーヌは慌てて否定した。
「そうなの。ざんねーん」
「私、昨日ユリック様を見たわ。素敵だった!」
別の同僚が言う。ユリックの名に、リエーヌはどきっとした。
「氷の貴公子様よね」
「いつも冷たくって。その微笑までクールで!」
「王太子様が結婚しちゃったから、今は貴族令嬢がこぞって狙ってるんだって」
「23歳だっけ。もう結婚しててもおかしくないのに」
「冷たいのに優しくて、そのギャップがいいんだって! 誰にも心を開かず、縁談はすべて断ってるって」
「だから氷の貴公子なんじゃん。彼の心を射止めるのはどんな令嬢かしら」
「そんな有名な人なんだ……」
同僚は、知らないの、と驚いた。
「来たばっかりですから」
「そっか。見て損はないわよ。素敵なんだから!」
「その人って、ユリック・エル・ローニャックっていいますか?」
「なんだ、知ってるんじゃん」
「知ってるのは名前だけです」
昨日会ったとは言えなかった。
それに、印象が違った。彼女が会ったユリックは優しく微笑していたから。
会いたい。
また会うことになる気がする、と彼は言っていた。
だが、普段は王宮になど用事はない。
もう二度と会うことなんてないだろう。
リエーヌは何度目かわからないため息をついた。
* * *
王宮に行く機会は、思いのほか早くやってきた。
また人手がないから手伝いがほしいと言われたのだ。
リエーヌは真っ先に手を上げた。
アデリーンは苦笑して、じゃあお願いね、と言った。
また数人で王宮に向かう。
30分の道のりがやけに長く感じられた。早く早く、と気が急いて仕方がなかった。
「リエーヌったらなんでそんな急いでるの?」
同僚が驚き半分、からかい半分で言う。
「い、急いでなんか」
「やっぱりこの前、素敵な人に会ったの?」
「あれからため息ばっかりだもんね」
からかわれて、顔が赤くなった。
「図星ね」
「誰かしら」
「うまくいくといいわね」
王宮まで、リエーヌは話のタネにされてしまった。
* * *
はりきって王宮に来たものの、ユリックに会うことはできなかった。
また召使はたくさんの洗濯物をリエーヌに持たせた。
今度は落とさない様にしながら、ユリックを探してキョロキョロした。
だが、ときおり遠くにおっさんの貴族を見かけるものの、彼の姿を見ることはなかった。
そんなうまくいかないか、とリエーヌはまたため息をついた。
仕事を終えて集合場所の裏庭に戻ろうとしたときだった。
まだ日は残っていて、あたりははっきりと見えていた。
木陰に、女性がいるのを見た。
王太子妃だ、とすぐに分かった。
艶やかな黒髪に明るい若葉のような色の瞳。すっきりした繊細な美少女で、胸が大きく、ウエストは細い。ピンクの生地にたくさんのレースとフリルがつけられたドレスを着ていた。
彼女は暗い顔をして、袖に隠れた二の腕をさすっていた。
リエーヌは嫌な予感がしてその姿を見ていた。
王宮に上がる前、同じように暗い顔をして腕をさすっている女性を見たことがあった。
近所にすむおばさんだった。
彼女は夫からよく暴力を受け、殴られた腕や足をよくさすっていた。見える部分は殴られないの、と彼女は語っていた。
鼓動が早くなる。
赤く汚れたシーツ、暗い顔の王太子妃。
余計な詮索をするんじゃないよ、と警告するアデリーンの顔が浮かぶ。
どうしよう。
リエーヌは悩む。
王太子妃は元男爵令嬢だったと聞いた。
それでも王太子とは身分の差があるという。
ということは、周りに相談できる人などいないのではないだろうか。
「あれ、君は」
ふいに声を掛けられ、心臓が口から飛び出そうになった。
「驚かせた? ごめん」
柔らかな声がリエーヌに謝罪する。
「ユリック様……」
驚きと喜びで、心臓が飛び跳ねた。
「やっぱりまた会えたね。ずっと君のことが気になっていたんだ」
うれしそうに彼は微笑む。
リエーヌはそれだけで幸せな気持ちになってしまう。
「なにか深刻そうな顔をしていたけど、何かあった?」
優しく言われ、リエーヌはうつむいた。
言って良いものだろうか。ただ彼女が勝手に心配しているにすぎないことを。
木陰を見ると、もう王太子妃はいなくなっていた。
「話すだけ話してみて。1人では解決しないことも、2人だったらなんとかできるかもしれないよ?」
リエーヌは不安をこらえて彼を見た。
微笑が彼女を包む。
リエーヌは考える。彼は貴族だから自分と違ってたくさん本を読んでいるはずだし、いろんなことを知っていて頭も良いはずだ。
「実は」
意を決して、リエーヌは話す。
王太子の部屋のシーツが血のようなもので汚れていたこと。王太子妃が痛そうに腕をさすっていたこと。その姿が暴力を受けていた近所のご夫人に重なったこと。
「私の勘違いだとは思うんですけど、気になって……」
違うよ、と笑って否定してほしかった。君の杞憂だよ、王太子夫婦はとても仲が良いんだ。
そんな返事が来ると思っていた、のに。
彼は眉を寄せ、真剣に考え込んでしまった。
「ユリック様……」
不安になって声をかけると、彼はハッと顔をあげた。
「君は優しいんだね」
目があって、恥ずかしくなってリエーヌは顔を伏せた。
「そんなことがあったなら君が心配するのもわかるよ」
寄り添う言葉に、胸はときめく。
「一緒に調査に行こう」
予想外の言葉に、息をのんだ。
「私は王太子殿下とも親しくてね。彼がそんなことをするとは思えないんだ」
リエーヌは頷く。今まで王太子の悪い噂など聞いたことがなかった。
だが、暴力を受けていた女性の夫もまた、世間の評判はとても良かった。
「彼がもし本当にそんなことをしているのなら、止めなくてはならない。止めるのもまた友人であり臣下である私の役目なのだと思う」
いつもと違う真剣な彼の顔に、思わずみとれそうになる。
「でも、誰にも言ってはいけないし、知られてはならないよ。これは大変なことなんだ。今夜12時にまたここに来てくれないか。時計は君の宿舎にもあるよね?」
優しくささやかれ、リエーヌは顔が熱くなった。
「はい」
「じゃあ、また夜に。誰にも知られないようにね」
まるで秘密の逢瀬を約束したみたいだ。
リエーヌの胸は高鳴った。
* * *
夜になり、リエーヌは約束の時間に約束の場所でユリックと落ち合った。
2人はひそやかに移動する。
恋する人と一緒に居る緊張と秘密の行動による緊張で、心臓は破裂しそうに脈を打つ。
衛兵にも見つからないように気を付け、足音をたてないように王太子の寝室へと近付く。
扉の前にたどりつくと、うめき声が聞こえた。
思わずユリックを見る。
彼は指を唇の前に立てた。
2人で扉に耳をつける。
お許しください、とかぼそい声が聞こえた。
バシン、バシンと何か叩くような音がする。
リエーヌはすぐさま扉から身を離した。
知らず、体が震える。
ユリックは難しい顔をしてリエーヌの肩を抱き、彼女を誘導した。2人でそっとその場を離れる。
落ち合った場所に戻ったリエーヌは、ようやく大きく息を吐いた。
「怖かった?」
たずねられ、頷く。
と同時に、自分の意気地のなさが情けなくなった。
ひどい目にあっている人がすぐ近くにいたのに、助けにいくことができなかった。恐怖で竦んでしまった。
「今日はここまでにしよう。助けに行くにしても準備が必要だからね。よくがんばってくれた。夜道は危ない。送って行こう。本当は迎えにも行きたかったんだ」
「そ、そんな」
いいです、とは言えなかった。少しでも長く彼といたかったから。
「気にしないで。あなたの勇気に感謝する」
ユリックに微笑みかけられ、恐怖心は消し飛んだ。
帰り道はあっという間だった。
またね、と言ってユリックは歩き去る。
その晩、リエーヌはろくに眠れなかった。
* * *
あれから数日が経過した。
何も進展はなかった。王宮の手伝いには呼ばれないし、ユリックとも会っていない。
「ねえねえ聞いた? 王太子妃様の話」
洗濯の最中に同僚に言われて、リエーヌはどきっとした。
「知らない。なんのこと?」
「リエーヌったら本当に王宮のことにうといわよね」
えへへ、と笑ってごまかす。内心は冷や汗が流れていた。
「王太子妃様、お倒れになったんだって」
「ええ!?」
思わず大きな声が出た。
「そこ、無駄なおしゃべりしないで」
アデリーンにじろりと見られ、慌てて手を動かす。
「もう。怒られちゃったじゃない」
小声で文句を言われる。
「ごめん。それで、お倒れになったって、どうして?」
「毎晩、王太子様が眠らせてくれないんだって!」
うふふ、と同僚が笑う。リエーヌは青ざめた。
「毎晩、それはそれはもう、激しいんですって」
お許しください、というか細い声。殴られるような音。
リエーヌは男女のことに疎い。そういう行為が実際にどんなふうに行われるのかも知らない。だが、あの様子はとうてい、夜の営みによるものとは思えなかった。
「私は妊娠して倒れたって聞いたわよ」
別の同僚が口をはさむ。
「最近、ろくに食事もとってないって」
「あら、つわりかしら。でも、結婚してから……計算合わなくない?」
「もう、そんな野暮なこと言うわけ? もちろん前から愛し合ってたに決まってるじゃない」
「でもご懐妊なら公表するんじゃない?」
「時期ってもんがあるのよ」
わかったように言う同僚に、リエーヌは何も言えなかった。
* * *
その夜、リエーヌは眠れずにいた。
彼女がいるのは大部屋で、周りはもう全員が眠りについていた。
昼間に聞いた同僚の話は、以前なら一緒になって盛り上がれたはずだった。
だが今は、いろんなことを考えてしまう。
こつん、と窓になにかが当たる音がした。
気になって窓を開けると、木の陰に馬と共に立つ人影が見えた。
月明かりに照らされたその人を見て、リエーヌは慌てて外に出た。
「ユリック様、どうしてこんなところに」
「君に会いたくなって」
ユリックは羽織っていた外套を脱ぎ、リエーヌに着せた。
リエーヌは顔を赤くした。慌てて出て来たので夜着のままだった。
「こちらは進展がなくて。君に会う理由を探せなかった。だけど、がまんできなくて会いに来てしまった」
言われて、リエーヌは泣きたくなった。
「どうしたの?」
「不安で。怖くて」
そう言うと、ユリックはリエーヌを抱きしめた。
リエーヌは突然のことに驚き、声も出ない。ユリックの腕の中が温かくて、胸がひときわ大きく高鳴った。
「私が一緒に調べようなんて言ったからだ。すまない」
「いいんです」
リエーヌは思わずユリックにしがみつく。
「ほかに何かあったの?」
聞かれて、リエーヌは話す。同僚が語った噂話を。
「酷い目に遭ってらっしゃるのでは、と、気が気でなくて」
ユリックは顔をしかめた。
「お倒れになったという話は私も聞いた」
リエーヌをだきしめたまま、ユリックは言う。
「眠らせない拷問がある、と聞いたことがある」
ビクッとリエーヌは震えた。
「拷問なんて」
ユリックの口からそんなおそろしい単語を聞くことになるとは思ってもみなかった。
「食事をとらせない虐待もある。ますます心配だな。周りは仲睦まじさの結果と思っているようだが……だとすると、なおさら王太子妃殿下の窮状に気が付く者はないということだ」
「は、早くお助けしないと」
「そうだね。まだ誰にも言ってないね」
「もちろんです」
「殿下が優しい顔の裏で妻に暴力をふるっているとなると、とんでもないスキャンダルだ。君の口からそれが漏れたとなれば、君自身がどんな目に遭うかわからない。決して誰にも話してはいけないよ」
「はい」
リエーヌは青ざめた顔でうなずいた。
ではまた、会いに来るから。
そう言って、ユリックは馬に乗って去って行った。
リエーヌは不安を押し殺してその姿を見送った。
* * *
翌日、ユリックは王太子ルネスランの私室を訪問した。
2人は日ごろから親しくしており、訪問を怪しむものは誰もいない。
「あれから進展は」
ルネスランがたずねる。
「洗濯係の件ですか?」
「そうだ」
「あの1名のほかは気づいていないようです」
その1名こそがリエーヌだった。
彼はリエーヌがルネスランの暴力を疑っていると知った時点で彼にもう報告をしていた。
「もちろん。口止めもしました。が、女は一部を除けば口が軽いものです」」
ユリックは氷の貴公子の名の通りに、冷たく無表情に言う。
ルネスランは水色の目を細めた。
「黙らせなくてはならない」
「私に策があります」
ユリックの目が暗く光った。
ルネスランは彼の計画を聞き、頷いた。
* * *
夜中の訪問から1週間が過ぎた。
リエーヌはそれからも不安な日々を過ごしていた。
気をつけて見ているが、あれ以来洗濯物に異常はなかった。
異常がないことが、さらに不安をかきたてた。
大丈夫なのだろうか。
心配でたまらないが、王太子妃に直接たずねるなんて、できるわけもない。
そんなときだった。
「お母さんから手紙が来たわ!」
同僚が喜んで言ってまわる姿を見た。
そうだ、手紙だ。
その思い付きに、リエーヌの胸はどきどきした。
王太子妃にこっそり手紙を渡すことはできないだろうか。
筆記用具はアデリーンが持っている。
家族に手紙を書きたい。そう言えば貸してくれるのではないだろうか。大昔と違って今は紙は安価で出回っている。
その思い付きはリエーヌにとりついたかのように、頭から離れなかった。
翌日には思い切ってアデリーンに言ってみた。
「家族に手紙を書きたいんです。紙を1枚いただけませんか。ペンとインクも貸していただけるとありがたいです」
「あんた、字が書けるの」
アデリーンは少し驚いていた。
「簡単なものでしたら」
この国では週末になると教会で文字を教えている。まだ弟妹がいなかった頃、そこに通ったことがあるのだ。
じゃあ、とアデリーンは紙と封筒をくれて、ペンとインクも貸してくれた。
夜になると誰もいない食堂に行き、月の灯りを頼りに手紙を書いた。
文字の記憶は朧で、ところどころで手はとまった。
必死に思い出して、書いた。
いつ渡せるのかわからない。
また王宮に行ける日があるのか。
いや、それまで待っていて大丈夫なのか。
早く、助けの手があることを知らせなくては。
王太子妃の洗濯物に忍ばせるのはどうだろう。
翌日、リエーヌは王太子妃の部屋にもっていく洗濯物を物色した。
ドレスはその形状から、めったに洗わない。つけ襟、付け袖はよく洗うが、それでは手紙は隠せない。シーツは王太子妃が直接触ることはない。
ハンカチなら。
リエーヌは小さくたたんだ手紙をハンカチに忍ばせ、洗濯物を戻した。
どきどきしながら、洗濯物が運ばれるのを待った。
それから、ハッときがつく。
ユリックに相談もなく独断で手紙を書いてしまった。
どうしよう。
急に不安が強くなる。
手紙はきちんと王太子妃に届くだろうか。
もし誰かほかの人が見てしまったら。
回収しようかと洗濯物を見に行った。
だがそれはもう運ばれたあとだった。
リエーヌは不安におしつぶされそうになりながらユリックを思った。
* * *
その紙を見つけたとき、ルネスランは顔をしかめた。
「なんだこれは」
王太子妃ジャスリーナの洗濯物をチェックしていて、それを見つけた。彼はジャスリーナの洗濯物をチェックするのを習慣にしていた。秘密がバレないようにするために。
紙にはミミズがのたくったような落書きが書かれていた。
文字のように見えなくもない。
暗号かとも思ったが、どちらかというとやはり、字のように見えた。
なにかあればいってください。おたすけしたいです。
どうやら、そう書いてあるようだった。ところどころ字がひっくりかえったりいびつになったりしていた。差出人の名前はなかった。
「どうかなさいましたか?」
ルネスランの難しい顔を見たジャスリーナがたずねる。
「なんでもない」
ルネスランは手紙をぐしゃりと握りしめた。
早くなんとかしなくては。
彼の目がギラっと光った。
* * *
ユリックがリエーヌを尋ねて来たのは、その夜のことだった。
馬にのってきた彼は、またも窓に小石を当てて合図した。
気付いたリエーヌは慌てて外に出た。
いつかと同じように、ユリックは彼女に外套を着せてくれた。
「王太子妃が危ない。一緒に来てくれないか」
リエーヌは息をのんだ。
「もしかして、私のせいで……」
ユリックは怪訝そうに彼女を見た。
「どうして?」
「私、手紙を書いたんです。王太子妃様にあてて……」
「それか……」
ユリックの呟きに、リエーヌは目をぎゅっとつぶった。
「とにかく、今は早く」
ユリックはリエーヌを抱え上げてひょいと馬に乗せると、自身もひらりと飛び乗った。
「う、馬なんて、初めてで」
「しっかりつかまって」
ユリックはそう言って急いで馬を走らせた。
* * *
初めての馬の乗り心地は最悪で、王宮に到着したリエーヌは全身ががくがくと震えていた。
それでも王太子妃を助けなくては、と自分を叱咤して、リエーヌを気遣うユリックとともに王太子の寝室へ向かう。
「すまない、少し焦り過ぎた」
ユリックはリエーヌに謝る。
「大丈夫です。それより、今は王太子妃様を」
2人は衛兵に見つからないように、慎重に歩を進めた。
* * *
幸い、誰とも会うことなく王太子の寝室に辿り着いた。
ドアに耳をつけると、悲鳴のようなくぐもった声と叩くような音が聞こえた。
「準備はいいかい」
ユリックに言われ、リエーヌは頷く。
ガチャっと扉を開けたあと、リエーヌはユリックに押されるようにして部屋に飛び込んだ。
たたらを踏んで立ち止まる。
「王太子妃様、助けに来ました!」
叫んだその目に映ったものに、リエーヌは口を開けたまま固まった。
床に、裸のルネスランが四つん這いになっていた。口には丸いボール状の口枷があった。
彼の後ろにはジャスリーナがいた。体にぴったりしていて大胆なスリットの入ったセクシーなドレスを着て、右手にはムチを持っていた。ハイヒールでルネスランの尻を踏み、左手の赤いロウソクを垂らそうとしているところだった。
3人は固まったまま見つめ合う。
ロウソクがとろりと溶けて、王太子の背に落ちた。
「——!!」
声にならない声をルネスランが上げた。どことなく喜んでいるように聞こえた。
3人の時間が再び動き出した。
「鍵かけろって言っただろ!」
ジャスリーナが乱暴な口調でムチでをふるう。痛そうな音が響いた。
ルネスランはうれしそうにのけぞった。
そして、キリッとリエーヌを見据える。
「ふが、ふがふが」
裸で四つん這いのまま、口枷のまま、凛々しい顔で何かを言った。
「何言ってるかわかんないだろ!」
再びジャスリーナがムチを振るう。
ルネスランはまたうれしそうにのけぞった。
ジャスリーナはルネスランの口枷をはずし、尻を蹴飛ばした。
「さっさとしゃべりなさいよ!」
ルネスランが立ち上がる。
「きゃあああ!」
リエーヌは悲鳴を上げた。
「お客様に粗末なもの見せてんじゃないよ!」
ジャスリーナがまたムチを振るう。
「申し訳ございません!」
ルネスランは慌ててシーツを腰に巻いた。
「死刑だ!」
キリッと顔を引き締め、ルネスランはリエーヌに宣告した。
「お許しを……」
リエーヌは戦慄して一歩を下がる。どん、とユリックにぶつかった。
振り返ると、ユリックはニヤリと笑い、リエーヌの腕を掴んだ。いつの間にか扉は閉められていた。
震えるリエーヌをしり目に、ジャスリーナがまたルネスランにムチを振るう。
「お前ごときが死刑を宣告していいと思ってるのか!」
「ああ、お許しください。申し訳ございません」
ルネスランはジャスリーナに額づく。
その頭をジャスリーナが踏みつける。
恍惚を浮かべたあと、ルネスランはまたキリッと顔を引き締めてリエーヌを見た。
「クビだ!」
ジャスリーナに踏みつけられたまま、彼は言った。
「クビになってください、お願いします、だろ!」
ジャスリーナがムチをふるう。
「申し訳ございません。クビになってください、お願いします」
「ブタのくせに人間の言葉しゃべってんじゃねえぞ」
ジャスリーナはさらに踏みつける。ルネスランがとろけるような顔をしている。
リエーヌはただただ呆然としていた。理解の範疇を越えていた。
「ユリック様、もういいでしょう」
息を切らしたジャスリーナが言い、ユリックが頷いた。
ルネスランが媚びるようにジャスリーナを見る。
「欲しがってんじゃねえ!」
ジャスリーナがムチをふり、ルネスランは喜びの声を上げた。
* * *
リエーヌは人気のない中庭に連れていかれた。
そこには小さな池があり、水面に美しい月がうつりこんでいた。
「ああ、ルネスラン様は今頃ジャスリーナ様に思う存分に攻め立てられているのだろうな……」
ユリックは王宮を見て陶然と呟く。
「いったい、何が……」
「わからないのか。あれは、そういう大人の世界だよ」
ユリックがニヤニヤと言う。
「君はプレイに巻き込まれたんだ」
「え?」
「わざと洗濯物に痕跡を残した。赤いのは血じゃなくてあのロウソクだろう」
確かに血にしては変だったし、何か塊のようなものがついていた。あれはロウだったのか。
「誰かに気付かれたらどうしよう。そのスリルもあの2人のエッセンスだったんだ」
ユリックは興奮しているようだった。やや息が荒い。
「王太子はなぜ鍵をかけなかったと思う? 見られたらどうしようっていうスリルを味わっていたんだよ。今は見られた羞恥を喜びとして悶えているだろうね。そのことで王太子妃……いや、女王様に責められ、それすらも……。理想の女王様だって言ってたな……」
うっとりとユリックは語る。
「だって、でも、眠らせないって……」
「プレイに夢中で睡眠不足になったんだろう」
「食事をとらせないって……」
「ちょっと太ったからダイエットしてたんだって。本人がそう言っていた。おかげであのセクシーな衣装がピッタリ似合っていた」
「腕をさすっていたのは……」
「ムチを振るい過ぎて筋肉痛だったんじゃないかな」
リエーヌはさらに混乱した。
ユリックはすべて知っていたのだ。
知っていて、彼女をたきつけた。
何が目的なのか。
「王太子妃様が危ないって……」
ユリックは熱を帯びた目でリエーヌを見る。
「嘘だよ。本当に王太子妃様のピンチなら君なんて連れて来ない。兵士を連れて行くよ」
その通りだった。
リエーヌは自分の愚かさを呪った。
「君は王太子夫婦の秘密を知った。命をとられても仕方ない。しゃべればどうなるか、わかっているね」
リエーヌはがくがくと頷く。
初めは死刑だと言われた。次にはクビだと言われた。
あのおかしな状況での宣告だったが、クビは確実だろう。
「どうかお見逃しください。こんなこととは思いませんでした。絶対に誰にも言いません」
ああ、とリエーヌは思いだす。
余計な詮索はするんじゃないよ、とアデリーンが言っていた。
言うことを聞いておくべきだった。
まだ幼い弟妹、地道に働く両親が頭に浮かぶ。家族を巻き込まないでいられるといいのだけど。
「君を助ける対価は? まさか何もないのに自分だけ助けろなんて言わないよね?」
舌なめずりしながら、ユリックは言う。
「私にできることでしたらなんでもします」
「なんでもするんだね」
「で、できることでしたら」
気圧されて思わずあとずさる。その手を、ユリックはつかんだ。
「これから、うちに来てもらう」
ユリックが言い、リエーヌは怯えた。
「俺だけの女王様になってもらうよ」
何を言われたのか理解できず、リエーヌはまばたきを繰り返した。
「私と王太子殿下はM仲間でね」
えむ、とリエーヌは呟く。
「初めて会ったときから思っていたんだ。君に踏みつけられたいって」
ユリックは興奮で瞳を潤ませ、リエーヌを見つめた。
* * *
こうしてリエーヌは洗濯係から女王様にジョブチェンジした。
終
汗をかきながら忙しく働く女たちの中、新人のリエーヌ・ルジャンもまた一生懸命に働いていた。亜麻色の髪を後ろで一つに結んでいるが、後れ毛がはりついて気持ち悪かった。
次の洗濯物をとりあげ、ふと手を止めた。緑の瞳に疑問が浮かぶ。妙に汚れている気がした。
「アデリーンさん、これは」
先輩のおばさん洗濯係、アデリーン・ルクティエンにそれを見せた。
「ああ、銀糸の刺繍があるから、それはこっちにしておくかね」
アデリーンは迷いなく手洗いの方にそれを仕分けた。
彼女はベテランだ。だんなさんは兵士で、家族用の宿舎に住んでいる。
「王太子殿下のとこのシーツだね。新婚さんだから激しいのかしらね」
アデリーンの言葉に、リエーヌは顔を赤くした。
「ウブだね、あんた。16歳ならもう縁談も来る歳だろうに。王太子妃様と同じ年なんだし」
アデリーンはカラカラと笑った。
20歳の王太子、ルネスラン・オージェル・クーブレールは最近結婚したばかりだった。
優しい王太子殿下はその妃を溺愛しているともっぱらの噂だった。
リエーヌも遠めにその姿を見たことがあった。ダークブロンドの髪に水色の瞳。凛々しくて、誰もが憧れる王子そのものの姿だった。
王太子妃は美しい少女だった。同じ年とは思えない。美しい黒髪に若葉のような緑の瞳。華奢なのに胸が大きくてうらやましかった。
寄り添い合う二人はまさにリエーヌの理想だった。
「いいわよね、王太子様と結婚って」
ほかの洗濯係がうっとりと言う。
「金髪は威厳があって、瞳が湖のように美しくって」
「かっこよくって優しくって頭もよくて、完璧!」
「男爵令嬢が王太子様と結婚って、やっぱり身分が高い人同士でないと王太子とは結婚できないのね」
「違うわよ、男爵は貴族の中でも身分が低いのよ」
「それなのに結婚したんだからすごいのよ」
「お名前は確か、ジャスリーン様よね」
「すっごい溺愛されて、プロポーズされたんですって! 王太子様は王様に、結婚できなければ国を出て行く! ってタンカ切ったんですって。素敵!」
わいわいと話に花が咲く。
「はいはい、手が止まってるわよ」
アデリーンの注意に、はーい、と女たちはまた仕事に戻る。
が、またすぐに王太子の話を始める。
この前見かけたの。すっごいかっこよかった。
王太子妃様を見つめて、微笑んで。
理想の夫婦だわ。
それらを、リエーヌはうらやましい気持ちで聞いていた。
もし私が王子――は結婚してしまったから、貴族に見初められたら、そんな幸せなことはないだろうに。
うっとりと考える。
思い浮かべる貴族はもちろん若い美男子だ。金髪で背が高くてすらっとしていて。
身分なんか関係ない、なんて抱き寄せられたりして。
ただでさえ部屋が暑いのに、リエーヌの顔はさらに熱くなった。
* * *
洗濯ものは毎日王宮から馬車で洗濯室に届く。
洗濯室は水車に併設されていて、王宮からは距離がある。
そこには洗濯をする部屋と乾燥室、アイロン室がある。
メインの洗濯室は水はけをよくするために床がわずかに傾斜している。
初めはそれに慣れなくて、めまいのようにぐらついて転びそうになることが何度もあった。
洗濯ははじめに手洗いとそれ以外にわける。
シルクとリネンは手洗い。綿は基本的には洗濯用の樽の中へ。
洗濯用の樽は人の腰ほどの高さがある。洗濯物を放り込んだらお湯と石鹸を入れて洗濯棒で攪拌する。洗濯棒は取っ手がついており、その先端は6本に枝分かれしている。その取っ手を回して洗うのだから、けっこうな力が必要だった。
洗ったらローラーで水を絞る。これも重労働だ。
汚れがひどいものはサボンソウからとったエキスで手洗いする。サボンソウはナデシコ科の植物で、その葉っぱを水に入れてを揉むと泡立つため昔は石鹸として使ったという。サボンソウは薬にもなるが毒にもなるので、エキスの扱いは気を付けなくてはならない。
「ねえ、知ってる? 大昔はおしっこを発酵させて洗濯に使ったんだって」
若い先輩の洗濯係に言われて、リエーヌはドン引きした。
「本当ですか?」
「私も最初に聞いたとき驚いたわ。ダニよけのためにトイレに洗濯物を干してた時代もあったんだって」
「そんな時代に生まれなくて良かったわ」
「灰汁は昔から使われてたみたいだけど」
現在でもこの国では洗濯物を白く洗い上げるために灰汁は使われている。
洗濯は重労働だが、白く洗い上がると気持ちがいい。
洗ったものは外の木にかけた紐に干して、洗濯ばさみで固定する。洗濯ばさみは二本の木の枝を加工してブリキで巻いた単純な造りだった。
シーツなどは植木にふわっと置いて乾かすこともある。そのためにこのあたりの低い植木は干しやすいようにカットされている。
この国は空気が乾燥しているから、半日も干せば乾いてしまう。
乾いたら取り込んでアイロン室でアイロンだ。
アイロン台に洗濯物を置いて、木炭を中に入れたアイロンの熱でしわを伸ばしていく。
この部屋もまた暑くなるから、汗が洗濯物につかないように注意が必要だった。
だけど、ピンと皺の伸びた洗濯物を見ると気持ちがよくて、リエーヌはその瞬間が大好きだった。
* * *
数日後、リエーヌはまた洗濯物に汚れを見つけて首をかしげた。
「アデリーンさん、これ……」
この前と同じく銀糸の刺繍のあるシーツに、赤い染みができていた。
「あらあら。王太子妃様、月のものかしらね」
アデリーンはひょいとつかんで手洗いに仕分けした。
「でも……」
リエーヌはいぶかしむ。それにしては違和感がある。何か小さな塊のようなものもついていた。
そんな彼女に気付いて、アデリーンは向き直る。
「いいかい、リエーヌ。私たちは洗濯だけしていればいいの。余計な詮索はするんじゃないよ。仕事をなくすよ」
「……はい」
リエーヌは疑問を飲み込んだ。
洗濯は重労働で、嫌がられる仕事だ。
だから身分の低い庶民の彼女がこうして王宮で働くことができるのだ。
まだ幼い弟妹のためにも、彼女が働いて家族に仕送りしなくてはならない。仕事を失うわけにはいかない。
リエーヌは黙って次の洗濯物を手に取った。
* * *
人手が足りないから、手伝ってほしい。
そう言われて、リエーヌは数人の同僚と洗濯物を届けるお手伝いに王宮に行った。洗濯物自体は馬車で先行している。王宮内の各部屋に届けるお手伝いだ。
「王宮なんて久しぶり!」
「私は初めてです」
リエーヌは興奮気味に言う。
「王太子様、見れるかなあ」
「それより、独身貴族よ!」
「そんなの現実的じゃないわ。王宮勤めの独身男性にしたほうがいいわよ」
わいわいと言い合いながら歩くのは楽しかった。
30分ほど歩いていき、ようやく王宮に到着した。
それぞれ、待ち構えていた王宮の召使とともにペアになって洗濯物を持っていくことになった。
召使たちは洗濯係の女性たちよりいい服を着た女性だった。プライドが高そうでツンとしていた。彼女らも庶民とはいえ、リエーヌたちより裕福な家庭の出身の女性たちだ。
リエーヌはペアになった女性にたくさんの洗濯物を積み上げられ、前が見えなくなった。なのに召使は数枚を持っただけだった。
リエーヌは文句を言えず、黙ってあとをついて歩く。
前が見えないので、ついていくだけでも必死だった。
だから、置いて行かれたことに気が付かなかった。
だから、曲がり角で周囲を確認する余裕なんて、さらさらなかった。
曲がった瞬間に衝撃があって、洗濯物をばら撒きながら後ろに転んでしまった。
「ああ!」
短く悲鳴を上げる。せっかく洗ったのに、これでは洗い直しではないのだろうか。
「君、大丈夫?」
若い男性の柔らかな声がした。
手が差し出された。袖口には見事な刺繍と模造宝石が縫い付けられ、白いレースが覗いていた。
洗うのが大変そうな服。レースは繊細で手洗いも気を付けなくてはならない。
そんなことを思って顔を上げて、今度は心臓が悲鳴を上げた。
輝く光を背に、美しい男性が微笑んでいた。
淡い金髪は窓から差し込む日差しでキラキラと輝いていた。すっきりと整った顔が爽やかだ。暮れた空のような紫紺の瞳は優しくて、瞳に合わせたような濃紺の生地に豪華な刺繍の衣装は彼にとてもよく似合っていた。
その手をとっていいものか、迷う。
黙って彼を見つめる彼女に、彼はひざまづいた。
「立てないの? ケガをした?」
彼は心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫です」
陶然とリエーヌは答えた。
「それなら良かった。君はここで働いているのかな。どこの所属?」
「洗濯係です。ふだんは洗濯室にいて……」
そして、ハッとした。
この衣装、きっと貴族だ。
貴族にぶつかったなんて、どんなに怒られるか。
リエーヌは慌てて祈るように膝をついて両手を組み、彼に向き直った。
「申し訳ありません。お許しください」
「謝ることはないよ。君は何も悪いことをしていない。さあ、立って」
手を引っ張られ、彼のもう片方の手で背を支えられるようにして、リエーヌは立った。
「洗濯物かな。落ちてしまった……けど、今拾ったらセーフってことにならないかな?」
彼はいたずらっぽく笑う。
リエーヌはただただ見とれた。
「注意がおろそかになっていたようだけど、何か心配ごとでもあった?」
どきっとした。
王子の汚れたシーツのことが思い出された。
「何してるの!」
叱責の声がとんできた。
召使の女性の声だった。
「こんなに散らかして! ——ユリック様!」
召使の女性は慌てて頭を下げた。
「彼女は悪くないよ。私がぶつかってしまったんだ。この洗濯物、どうしよう?」
「洗いに出しますので、ご安心ください」
リエーヌはがっかりした。せっかく洗ったのに。
「彼女にだけたくさん持たせるのはかわいそうだよ」
召使の腕に抱える洗濯物を見て、彼は言った。
「いえ、今日はたまたま。気を付けます」
「そうしてあげて」
言って、彼はリエーヌに向き直る。
「私はユリック・エル・ローニャックという。君とはまた会うことになる気がするよ」
ユリックは優しく彼女に微笑みかけた。
リエーヌはぽかん、とその顔を見た。
エルはこの国では侯爵の名につく。つまり彼は侯爵だ。
じゃあね、と彼はリエーヌの心に微笑を残して歩き去った。
召使が洗濯物を早く拾えとぎゃんぎゃん言っているが、まったく耳に入らなかった。
* * *
翌日、リエーヌは一日中ため息をついていた。
アデリーンに心配されたが、なんでもないです、と答えてやりごした。
頭の中はユリックでいっぱいだった。
「素敵な人に出会ったの?」
「違います」
同僚にからかわれ、リエーヌは慌てて否定した。
「そうなの。ざんねーん」
「私、昨日ユリック様を見たわ。素敵だった!」
別の同僚が言う。ユリックの名に、リエーヌはどきっとした。
「氷の貴公子様よね」
「いつも冷たくって。その微笑までクールで!」
「王太子様が結婚しちゃったから、今は貴族令嬢がこぞって狙ってるんだって」
「23歳だっけ。もう結婚しててもおかしくないのに」
「冷たいのに優しくて、そのギャップがいいんだって! 誰にも心を開かず、縁談はすべて断ってるって」
「だから氷の貴公子なんじゃん。彼の心を射止めるのはどんな令嬢かしら」
「そんな有名な人なんだ……」
同僚は、知らないの、と驚いた。
「来たばっかりですから」
「そっか。見て損はないわよ。素敵なんだから!」
「その人って、ユリック・エル・ローニャックっていいますか?」
「なんだ、知ってるんじゃん」
「知ってるのは名前だけです」
昨日会ったとは言えなかった。
それに、印象が違った。彼女が会ったユリックは優しく微笑していたから。
会いたい。
また会うことになる気がする、と彼は言っていた。
だが、普段は王宮になど用事はない。
もう二度と会うことなんてないだろう。
リエーヌは何度目かわからないため息をついた。
* * *
王宮に行く機会は、思いのほか早くやってきた。
また人手がないから手伝いがほしいと言われたのだ。
リエーヌは真っ先に手を上げた。
アデリーンは苦笑して、じゃあお願いね、と言った。
また数人で王宮に向かう。
30分の道のりがやけに長く感じられた。早く早く、と気が急いて仕方がなかった。
「リエーヌったらなんでそんな急いでるの?」
同僚が驚き半分、からかい半分で言う。
「い、急いでなんか」
「やっぱりこの前、素敵な人に会ったの?」
「あれからため息ばっかりだもんね」
からかわれて、顔が赤くなった。
「図星ね」
「誰かしら」
「うまくいくといいわね」
王宮まで、リエーヌは話のタネにされてしまった。
* * *
はりきって王宮に来たものの、ユリックに会うことはできなかった。
また召使はたくさんの洗濯物をリエーヌに持たせた。
今度は落とさない様にしながら、ユリックを探してキョロキョロした。
だが、ときおり遠くにおっさんの貴族を見かけるものの、彼の姿を見ることはなかった。
そんなうまくいかないか、とリエーヌはまたため息をついた。
仕事を終えて集合場所の裏庭に戻ろうとしたときだった。
まだ日は残っていて、あたりははっきりと見えていた。
木陰に、女性がいるのを見た。
王太子妃だ、とすぐに分かった。
艶やかな黒髪に明るい若葉のような色の瞳。すっきりした繊細な美少女で、胸が大きく、ウエストは細い。ピンクの生地にたくさんのレースとフリルがつけられたドレスを着ていた。
彼女は暗い顔をして、袖に隠れた二の腕をさすっていた。
リエーヌは嫌な予感がしてその姿を見ていた。
王宮に上がる前、同じように暗い顔をして腕をさすっている女性を見たことがあった。
近所にすむおばさんだった。
彼女は夫からよく暴力を受け、殴られた腕や足をよくさすっていた。見える部分は殴られないの、と彼女は語っていた。
鼓動が早くなる。
赤く汚れたシーツ、暗い顔の王太子妃。
余計な詮索をするんじゃないよ、と警告するアデリーンの顔が浮かぶ。
どうしよう。
リエーヌは悩む。
王太子妃は元男爵令嬢だったと聞いた。
それでも王太子とは身分の差があるという。
ということは、周りに相談できる人などいないのではないだろうか。
「あれ、君は」
ふいに声を掛けられ、心臓が口から飛び出そうになった。
「驚かせた? ごめん」
柔らかな声がリエーヌに謝罪する。
「ユリック様……」
驚きと喜びで、心臓が飛び跳ねた。
「やっぱりまた会えたね。ずっと君のことが気になっていたんだ」
うれしそうに彼は微笑む。
リエーヌはそれだけで幸せな気持ちになってしまう。
「なにか深刻そうな顔をしていたけど、何かあった?」
優しく言われ、リエーヌはうつむいた。
言って良いものだろうか。ただ彼女が勝手に心配しているにすぎないことを。
木陰を見ると、もう王太子妃はいなくなっていた。
「話すだけ話してみて。1人では解決しないことも、2人だったらなんとかできるかもしれないよ?」
リエーヌは不安をこらえて彼を見た。
微笑が彼女を包む。
リエーヌは考える。彼は貴族だから自分と違ってたくさん本を読んでいるはずだし、いろんなことを知っていて頭も良いはずだ。
「実は」
意を決して、リエーヌは話す。
王太子の部屋のシーツが血のようなもので汚れていたこと。王太子妃が痛そうに腕をさすっていたこと。その姿が暴力を受けていた近所のご夫人に重なったこと。
「私の勘違いだとは思うんですけど、気になって……」
違うよ、と笑って否定してほしかった。君の杞憂だよ、王太子夫婦はとても仲が良いんだ。
そんな返事が来ると思っていた、のに。
彼は眉を寄せ、真剣に考え込んでしまった。
「ユリック様……」
不安になって声をかけると、彼はハッと顔をあげた。
「君は優しいんだね」
目があって、恥ずかしくなってリエーヌは顔を伏せた。
「そんなことがあったなら君が心配するのもわかるよ」
寄り添う言葉に、胸はときめく。
「一緒に調査に行こう」
予想外の言葉に、息をのんだ。
「私は王太子殿下とも親しくてね。彼がそんなことをするとは思えないんだ」
リエーヌは頷く。今まで王太子の悪い噂など聞いたことがなかった。
だが、暴力を受けていた女性の夫もまた、世間の評判はとても良かった。
「彼がもし本当にそんなことをしているのなら、止めなくてはならない。止めるのもまた友人であり臣下である私の役目なのだと思う」
いつもと違う真剣な彼の顔に、思わずみとれそうになる。
「でも、誰にも言ってはいけないし、知られてはならないよ。これは大変なことなんだ。今夜12時にまたここに来てくれないか。時計は君の宿舎にもあるよね?」
優しくささやかれ、リエーヌは顔が熱くなった。
「はい」
「じゃあ、また夜に。誰にも知られないようにね」
まるで秘密の逢瀬を約束したみたいだ。
リエーヌの胸は高鳴った。
* * *
夜になり、リエーヌは約束の時間に約束の場所でユリックと落ち合った。
2人はひそやかに移動する。
恋する人と一緒に居る緊張と秘密の行動による緊張で、心臓は破裂しそうに脈を打つ。
衛兵にも見つからないように気を付け、足音をたてないように王太子の寝室へと近付く。
扉の前にたどりつくと、うめき声が聞こえた。
思わずユリックを見る。
彼は指を唇の前に立てた。
2人で扉に耳をつける。
お許しください、とかぼそい声が聞こえた。
バシン、バシンと何か叩くような音がする。
リエーヌはすぐさま扉から身を離した。
知らず、体が震える。
ユリックは難しい顔をしてリエーヌの肩を抱き、彼女を誘導した。2人でそっとその場を離れる。
落ち合った場所に戻ったリエーヌは、ようやく大きく息を吐いた。
「怖かった?」
たずねられ、頷く。
と同時に、自分の意気地のなさが情けなくなった。
ひどい目にあっている人がすぐ近くにいたのに、助けにいくことができなかった。恐怖で竦んでしまった。
「今日はここまでにしよう。助けに行くにしても準備が必要だからね。よくがんばってくれた。夜道は危ない。送って行こう。本当は迎えにも行きたかったんだ」
「そ、そんな」
いいです、とは言えなかった。少しでも長く彼といたかったから。
「気にしないで。あなたの勇気に感謝する」
ユリックに微笑みかけられ、恐怖心は消し飛んだ。
帰り道はあっという間だった。
またね、と言ってユリックは歩き去る。
その晩、リエーヌはろくに眠れなかった。
* * *
あれから数日が経過した。
何も進展はなかった。王宮の手伝いには呼ばれないし、ユリックとも会っていない。
「ねえねえ聞いた? 王太子妃様の話」
洗濯の最中に同僚に言われて、リエーヌはどきっとした。
「知らない。なんのこと?」
「リエーヌったら本当に王宮のことにうといわよね」
えへへ、と笑ってごまかす。内心は冷や汗が流れていた。
「王太子妃様、お倒れになったんだって」
「ええ!?」
思わず大きな声が出た。
「そこ、無駄なおしゃべりしないで」
アデリーンにじろりと見られ、慌てて手を動かす。
「もう。怒られちゃったじゃない」
小声で文句を言われる。
「ごめん。それで、お倒れになったって、どうして?」
「毎晩、王太子様が眠らせてくれないんだって!」
うふふ、と同僚が笑う。リエーヌは青ざめた。
「毎晩、それはそれはもう、激しいんですって」
お許しください、というか細い声。殴られるような音。
リエーヌは男女のことに疎い。そういう行為が実際にどんなふうに行われるのかも知らない。だが、あの様子はとうてい、夜の営みによるものとは思えなかった。
「私は妊娠して倒れたって聞いたわよ」
別の同僚が口をはさむ。
「最近、ろくに食事もとってないって」
「あら、つわりかしら。でも、結婚してから……計算合わなくない?」
「もう、そんな野暮なこと言うわけ? もちろん前から愛し合ってたに決まってるじゃない」
「でもご懐妊なら公表するんじゃない?」
「時期ってもんがあるのよ」
わかったように言う同僚に、リエーヌは何も言えなかった。
* * *
その夜、リエーヌは眠れずにいた。
彼女がいるのは大部屋で、周りはもう全員が眠りについていた。
昼間に聞いた同僚の話は、以前なら一緒になって盛り上がれたはずだった。
だが今は、いろんなことを考えてしまう。
こつん、と窓になにかが当たる音がした。
気になって窓を開けると、木の陰に馬と共に立つ人影が見えた。
月明かりに照らされたその人を見て、リエーヌは慌てて外に出た。
「ユリック様、どうしてこんなところに」
「君に会いたくなって」
ユリックは羽織っていた外套を脱ぎ、リエーヌに着せた。
リエーヌは顔を赤くした。慌てて出て来たので夜着のままだった。
「こちらは進展がなくて。君に会う理由を探せなかった。だけど、がまんできなくて会いに来てしまった」
言われて、リエーヌは泣きたくなった。
「どうしたの?」
「不安で。怖くて」
そう言うと、ユリックはリエーヌを抱きしめた。
リエーヌは突然のことに驚き、声も出ない。ユリックの腕の中が温かくて、胸がひときわ大きく高鳴った。
「私が一緒に調べようなんて言ったからだ。すまない」
「いいんです」
リエーヌは思わずユリックにしがみつく。
「ほかに何かあったの?」
聞かれて、リエーヌは話す。同僚が語った噂話を。
「酷い目に遭ってらっしゃるのでは、と、気が気でなくて」
ユリックは顔をしかめた。
「お倒れになったという話は私も聞いた」
リエーヌをだきしめたまま、ユリックは言う。
「眠らせない拷問がある、と聞いたことがある」
ビクッとリエーヌは震えた。
「拷問なんて」
ユリックの口からそんなおそろしい単語を聞くことになるとは思ってもみなかった。
「食事をとらせない虐待もある。ますます心配だな。周りは仲睦まじさの結果と思っているようだが……だとすると、なおさら王太子妃殿下の窮状に気が付く者はないということだ」
「は、早くお助けしないと」
「そうだね。まだ誰にも言ってないね」
「もちろんです」
「殿下が優しい顔の裏で妻に暴力をふるっているとなると、とんでもないスキャンダルだ。君の口からそれが漏れたとなれば、君自身がどんな目に遭うかわからない。決して誰にも話してはいけないよ」
「はい」
リエーヌは青ざめた顔でうなずいた。
ではまた、会いに来るから。
そう言って、ユリックは馬に乗って去って行った。
リエーヌは不安を押し殺してその姿を見送った。
* * *
翌日、ユリックは王太子ルネスランの私室を訪問した。
2人は日ごろから親しくしており、訪問を怪しむものは誰もいない。
「あれから進展は」
ルネスランがたずねる。
「洗濯係の件ですか?」
「そうだ」
「あの1名のほかは気づいていないようです」
その1名こそがリエーヌだった。
彼はリエーヌがルネスランの暴力を疑っていると知った時点で彼にもう報告をしていた。
「もちろん。口止めもしました。が、女は一部を除けば口が軽いものです」」
ユリックは氷の貴公子の名の通りに、冷たく無表情に言う。
ルネスランは水色の目を細めた。
「黙らせなくてはならない」
「私に策があります」
ユリックの目が暗く光った。
ルネスランは彼の計画を聞き、頷いた。
* * *
夜中の訪問から1週間が過ぎた。
リエーヌはそれからも不安な日々を過ごしていた。
気をつけて見ているが、あれ以来洗濯物に異常はなかった。
異常がないことが、さらに不安をかきたてた。
大丈夫なのだろうか。
心配でたまらないが、王太子妃に直接たずねるなんて、できるわけもない。
そんなときだった。
「お母さんから手紙が来たわ!」
同僚が喜んで言ってまわる姿を見た。
そうだ、手紙だ。
その思い付きに、リエーヌの胸はどきどきした。
王太子妃にこっそり手紙を渡すことはできないだろうか。
筆記用具はアデリーンが持っている。
家族に手紙を書きたい。そう言えば貸してくれるのではないだろうか。大昔と違って今は紙は安価で出回っている。
その思い付きはリエーヌにとりついたかのように、頭から離れなかった。
翌日には思い切ってアデリーンに言ってみた。
「家族に手紙を書きたいんです。紙を1枚いただけませんか。ペンとインクも貸していただけるとありがたいです」
「あんた、字が書けるの」
アデリーンは少し驚いていた。
「簡単なものでしたら」
この国では週末になると教会で文字を教えている。まだ弟妹がいなかった頃、そこに通ったことがあるのだ。
じゃあ、とアデリーンは紙と封筒をくれて、ペンとインクも貸してくれた。
夜になると誰もいない食堂に行き、月の灯りを頼りに手紙を書いた。
文字の記憶は朧で、ところどころで手はとまった。
必死に思い出して、書いた。
いつ渡せるのかわからない。
また王宮に行ける日があるのか。
いや、それまで待っていて大丈夫なのか。
早く、助けの手があることを知らせなくては。
王太子妃の洗濯物に忍ばせるのはどうだろう。
翌日、リエーヌは王太子妃の部屋にもっていく洗濯物を物色した。
ドレスはその形状から、めったに洗わない。つけ襟、付け袖はよく洗うが、それでは手紙は隠せない。シーツは王太子妃が直接触ることはない。
ハンカチなら。
リエーヌは小さくたたんだ手紙をハンカチに忍ばせ、洗濯物を戻した。
どきどきしながら、洗濯物が運ばれるのを待った。
それから、ハッときがつく。
ユリックに相談もなく独断で手紙を書いてしまった。
どうしよう。
急に不安が強くなる。
手紙はきちんと王太子妃に届くだろうか。
もし誰かほかの人が見てしまったら。
回収しようかと洗濯物を見に行った。
だがそれはもう運ばれたあとだった。
リエーヌは不安におしつぶされそうになりながらユリックを思った。
* * *
その紙を見つけたとき、ルネスランは顔をしかめた。
「なんだこれは」
王太子妃ジャスリーナの洗濯物をチェックしていて、それを見つけた。彼はジャスリーナの洗濯物をチェックするのを習慣にしていた。秘密がバレないようにするために。
紙にはミミズがのたくったような落書きが書かれていた。
文字のように見えなくもない。
暗号かとも思ったが、どちらかというとやはり、字のように見えた。
なにかあればいってください。おたすけしたいです。
どうやら、そう書いてあるようだった。ところどころ字がひっくりかえったりいびつになったりしていた。差出人の名前はなかった。
「どうかなさいましたか?」
ルネスランの難しい顔を見たジャスリーナがたずねる。
「なんでもない」
ルネスランは手紙をぐしゃりと握りしめた。
早くなんとかしなくては。
彼の目がギラっと光った。
* * *
ユリックがリエーヌを尋ねて来たのは、その夜のことだった。
馬にのってきた彼は、またも窓に小石を当てて合図した。
気付いたリエーヌは慌てて外に出た。
いつかと同じように、ユリックは彼女に外套を着せてくれた。
「王太子妃が危ない。一緒に来てくれないか」
リエーヌは息をのんだ。
「もしかして、私のせいで……」
ユリックは怪訝そうに彼女を見た。
「どうして?」
「私、手紙を書いたんです。王太子妃様にあてて……」
「それか……」
ユリックの呟きに、リエーヌは目をぎゅっとつぶった。
「とにかく、今は早く」
ユリックはリエーヌを抱え上げてひょいと馬に乗せると、自身もひらりと飛び乗った。
「う、馬なんて、初めてで」
「しっかりつかまって」
ユリックはそう言って急いで馬を走らせた。
* * *
初めての馬の乗り心地は最悪で、王宮に到着したリエーヌは全身ががくがくと震えていた。
それでも王太子妃を助けなくては、と自分を叱咤して、リエーヌを気遣うユリックとともに王太子の寝室へ向かう。
「すまない、少し焦り過ぎた」
ユリックはリエーヌに謝る。
「大丈夫です。それより、今は王太子妃様を」
2人は衛兵に見つからないように、慎重に歩を進めた。
* * *
幸い、誰とも会うことなく王太子の寝室に辿り着いた。
ドアに耳をつけると、悲鳴のようなくぐもった声と叩くような音が聞こえた。
「準備はいいかい」
ユリックに言われ、リエーヌは頷く。
ガチャっと扉を開けたあと、リエーヌはユリックに押されるようにして部屋に飛び込んだ。
たたらを踏んで立ち止まる。
「王太子妃様、助けに来ました!」
叫んだその目に映ったものに、リエーヌは口を開けたまま固まった。
床に、裸のルネスランが四つん這いになっていた。口には丸いボール状の口枷があった。
彼の後ろにはジャスリーナがいた。体にぴったりしていて大胆なスリットの入ったセクシーなドレスを着て、右手にはムチを持っていた。ハイヒールでルネスランの尻を踏み、左手の赤いロウソクを垂らそうとしているところだった。
3人は固まったまま見つめ合う。
ロウソクがとろりと溶けて、王太子の背に落ちた。
「——!!」
声にならない声をルネスランが上げた。どことなく喜んでいるように聞こえた。
3人の時間が再び動き出した。
「鍵かけろって言っただろ!」
ジャスリーナが乱暴な口調でムチでをふるう。痛そうな音が響いた。
ルネスランはうれしそうにのけぞった。
そして、キリッとリエーヌを見据える。
「ふが、ふがふが」
裸で四つん這いのまま、口枷のまま、凛々しい顔で何かを言った。
「何言ってるかわかんないだろ!」
再びジャスリーナがムチを振るう。
ルネスランはまたうれしそうにのけぞった。
ジャスリーナはルネスランの口枷をはずし、尻を蹴飛ばした。
「さっさとしゃべりなさいよ!」
ルネスランが立ち上がる。
「きゃあああ!」
リエーヌは悲鳴を上げた。
「お客様に粗末なもの見せてんじゃないよ!」
ジャスリーナがまたムチを振るう。
「申し訳ございません!」
ルネスランは慌ててシーツを腰に巻いた。
「死刑だ!」
キリッと顔を引き締め、ルネスランはリエーヌに宣告した。
「お許しを……」
リエーヌは戦慄して一歩を下がる。どん、とユリックにぶつかった。
振り返ると、ユリックはニヤリと笑い、リエーヌの腕を掴んだ。いつの間にか扉は閉められていた。
震えるリエーヌをしり目に、ジャスリーナがまたルネスランにムチを振るう。
「お前ごときが死刑を宣告していいと思ってるのか!」
「ああ、お許しください。申し訳ございません」
ルネスランはジャスリーナに額づく。
その頭をジャスリーナが踏みつける。
恍惚を浮かべたあと、ルネスランはまたキリッと顔を引き締めてリエーヌを見た。
「クビだ!」
ジャスリーナに踏みつけられたまま、彼は言った。
「クビになってください、お願いします、だろ!」
ジャスリーナがムチをふるう。
「申し訳ございません。クビになってください、お願いします」
「ブタのくせに人間の言葉しゃべってんじゃねえぞ」
ジャスリーナはさらに踏みつける。ルネスランがとろけるような顔をしている。
リエーヌはただただ呆然としていた。理解の範疇を越えていた。
「ユリック様、もういいでしょう」
息を切らしたジャスリーナが言い、ユリックが頷いた。
ルネスランが媚びるようにジャスリーナを見る。
「欲しがってんじゃねえ!」
ジャスリーナがムチをふり、ルネスランは喜びの声を上げた。
* * *
リエーヌは人気のない中庭に連れていかれた。
そこには小さな池があり、水面に美しい月がうつりこんでいた。
「ああ、ルネスラン様は今頃ジャスリーナ様に思う存分に攻め立てられているのだろうな……」
ユリックは王宮を見て陶然と呟く。
「いったい、何が……」
「わからないのか。あれは、そういう大人の世界だよ」
ユリックがニヤニヤと言う。
「君はプレイに巻き込まれたんだ」
「え?」
「わざと洗濯物に痕跡を残した。赤いのは血じゃなくてあのロウソクだろう」
確かに血にしては変だったし、何か塊のようなものがついていた。あれはロウだったのか。
「誰かに気付かれたらどうしよう。そのスリルもあの2人のエッセンスだったんだ」
ユリックは興奮しているようだった。やや息が荒い。
「王太子はなぜ鍵をかけなかったと思う? 見られたらどうしようっていうスリルを味わっていたんだよ。今は見られた羞恥を喜びとして悶えているだろうね。そのことで王太子妃……いや、女王様に責められ、それすらも……。理想の女王様だって言ってたな……」
うっとりとユリックは語る。
「だって、でも、眠らせないって……」
「プレイに夢中で睡眠不足になったんだろう」
「食事をとらせないって……」
「ちょっと太ったからダイエットしてたんだって。本人がそう言っていた。おかげであのセクシーな衣装がピッタリ似合っていた」
「腕をさすっていたのは……」
「ムチを振るい過ぎて筋肉痛だったんじゃないかな」
リエーヌはさらに混乱した。
ユリックはすべて知っていたのだ。
知っていて、彼女をたきつけた。
何が目的なのか。
「王太子妃様が危ないって……」
ユリックは熱を帯びた目でリエーヌを見る。
「嘘だよ。本当に王太子妃様のピンチなら君なんて連れて来ない。兵士を連れて行くよ」
その通りだった。
リエーヌは自分の愚かさを呪った。
「君は王太子夫婦の秘密を知った。命をとられても仕方ない。しゃべればどうなるか、わかっているね」
リエーヌはがくがくと頷く。
初めは死刑だと言われた。次にはクビだと言われた。
あのおかしな状況での宣告だったが、クビは確実だろう。
「どうかお見逃しください。こんなこととは思いませんでした。絶対に誰にも言いません」
ああ、とリエーヌは思いだす。
余計な詮索はするんじゃないよ、とアデリーンが言っていた。
言うことを聞いておくべきだった。
まだ幼い弟妹、地道に働く両親が頭に浮かぶ。家族を巻き込まないでいられるといいのだけど。
「君を助ける対価は? まさか何もないのに自分だけ助けろなんて言わないよね?」
舌なめずりしながら、ユリックは言う。
「私にできることでしたらなんでもします」
「なんでもするんだね」
「で、できることでしたら」
気圧されて思わずあとずさる。その手を、ユリックはつかんだ。
「これから、うちに来てもらう」
ユリックが言い、リエーヌは怯えた。
「俺だけの女王様になってもらうよ」
何を言われたのか理解できず、リエーヌはまばたきを繰り返した。
「私と王太子殿下はM仲間でね」
えむ、とリエーヌは呟く。
「初めて会ったときから思っていたんだ。君に踏みつけられたいって」
ユリックは興奮で瞳を潤ませ、リエーヌを見つめた。
* * *
こうしてリエーヌは洗濯係から女王様にジョブチェンジした。
終