パラノイド・パラノイア

眠る鼓動

私は母が電話に出るのを心待ちにしていた。いつもなら待ってもいないのにかけてきて、やれいい人はいないのかやれ見合いをしろだの口うるさく言ってくる母だ。煩わしいったらない。
けどそんなことをうっかり口にすれば、孝行したい時に親はいないだの何だのと余計に長く喧しくなるのは目に見えているので、噯気にもださないように細心の注意を払う。つまり、仕事が忙しいと託けてさっさと電話を切ってしまうに限るのだ。

「もしもし」

数コールで電話に出た母の声は掠れていた。昼寝でもしていたのかもしれない。寝起きにこの話題はショックかもだけど気にしている余裕はない。

「母さん、あたしだけど」
「千鶴? どうしたの、珍しい!」

母の声には驚きと喜びが混じった、テンションの高さがあった。血圧上がって倒れるぞ、と言いたいのを呑み込んで、私はさっさと本題に入ることにした。

「もしかしていい人でもできたの?」
「うん、二人で食事に行こうって」

母はテンションの高さそのままに私に質問してくる。年は? 年収は? 仕事は? イケメン? ……とにかく落ち着いてほしくて、機嫌が悪くなるのも構わず話を遮る。

「新島 悠介って人なんだけど……覚えてる?」
「え? 前に会ったっけ?」
「転園する前の幼稚園で一緒だった子」

沈黙。
一息で言ってしまったから聞き返されるかと思ったけど、ちゃんと母に伝わったらしい。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、電話口で押し黙ってしまった。部屋にある時計の秒針だけが神経質な響きを寄越してきて、私は居た堪れずに口を開いた。
でも母のほうが一瞬だけ早かった。

「千鶴」
「うん」
「電話で話すのもあれだからやめとくけどさ」
「うん」
「お母さんは止めない」
「……そっか。ありがとう」
「でも、できれば新島くん以外の人と幸せになってほしいとも思う」
「ねぇ、新島くんは」
「それが今の正直な気持ち」
「……ところでさ」

今度は母が私の話を遮った。お互い様ってやつだ。それからはどこで会ったか、見た目はどうなっているかで盛り上がった。私は会社でたまたま再会し、そこで食事に誘われたのだと話した。彼は親会社に勤めていて、私が勤めている子会社にヘルプとしてやってきたのだと。
母はうんうんと相槌を打っていたが、いきなり慌てたように早口になった。

「あんた、勝負服の一着も持ってるの?」
「母さん、勝負服って」
「何気ぃ抜けた声出してんの。これは戦よ、い・く・さ」

また変な時代劇でも見たな。頭を抱えたくなった私のことなど知らずに、母は好き放題捲し立てる。

「新島くん、下手に肩肘張ったようなのは好きじゃないって」
「気ぃ遣ってくれてんのよ」
「その、色々と話したいことがあるから、個室がいいとは言ってたんだけど……」
「そう……」

母の声は、途端に緊張を帯びて暗くなった。きっと転園する前の“事件”について聞きたいのだと、私と同じように思い当たったのだろう。
無事に二人で食事ができて、この話題になったらどう言えばいいんだろう。記憶があやふやでろくすっぽ覚えてないとでも嘘を吐けばいい? 逆に全て正直に話せばいい?
どんな答えが、誰も傷つけずにすむのか。私には気の利いた言葉など何一つ思いつかなかった。

「千鶴、やっぱり新島くんはやめときなさい」
「母さん」
「止めないってさっき言ったけど、あんた、覚えてるのね?」
「うん」

全部ではないけど、なんならあの記憶だけしかないけど、しっかりと覚えていた。
あれから大きくなるにつれ、自分が何をしでかしたかを理解して震え上がり、明日にでも警察の人がやってきて私を逮捕するんじゃないかと怯えて、眠れない夜を過ごした。憔悴していく私を両親は不安に思い、児童向けのカウンセリングに通わせてくれた。
そこでも何も話せなかった。どうせなら、教会にでも連れていってもらったほうが良かったと恨みがましい気持ちを抱いた。そこで罪を告白すれば、神様は何だって許してくれると、聞きかじった知識で卑怯な手を考えたのは記憶に新しい。

「もしかして……ほら、昔さ、あんた長い間体調崩してたじゃない? あれって……」
「うん、前の幼稚園のこと、ずっと考えてた」

再び秒針の音が大きくなった。かちこち、かちこち。時間だけが無駄に過ぎて、タイムリミットはもうすぐだぞ、と脅迫しているようだ。

「食事には行ってもいいから、しらを切り通しなさい」
「母さん、新島くんがもし全部覚えていたら」
「……そうね、今は同じ会社だったのよね」

ヘルプにはどのくらいいるのか、と聞かれ、一年はいる、と答えたら、唸って黙り込んでしまった。
仮にその場はしらを切ってやり過ごせたとしても、新島くんは一年ほど子会社に通うと決まっている。ならばその間に私から話を聞き出そうとしてもおかしくはない。一年も親会社から来た人の要求を退ける。……うん、難題だこれは。

「とにかく、覚えてることを全部話すのはやめときなさい」
「わかった。明日も早いし、今日はもう寝るよ」
「うん、おやすみ」

母は身体に気をつけるようにと付け加えるのを遠くで聞きながら、私は電話をゆっくりと切った。時計の針が規則正しい音を立てていたが、もう何とも思えなかった。
シャワーだけ浴びて寝てしまおうと、着替えの準備だけする。明日は朝イチで会議があるし、急いで入ってスキンケアして横になろう。
シャワーから水の粒が勢いよく降ってきて、髪を濡らす。お湯が頭だけでなく身体も温めて、心はあの資料室へと飛んだ。

『ずっと探していたんだ』

新島くんは私の手を握ったままそう言った。かつて通っていた幼稚園の名前を告げられて、私はあまりのことに驚き、声すら出せないままだ。

『あの時の、お礼が言いたくて』

あの時の。
その言葉が指し示すのは、あの瞬間しかない。

『に、いじま、くん……』

やっと出せた声は酷く震えて、自分の声ながら随分と情けないと思った。
新島くんはちっとも気にせず、私に目を合わせて微笑む。ああ、イケメンだなぁ。くっきりしたつぶらな瞳に、はっきりした二重まぶた。鼻梁は高すぎず低すぎず。唇はやや薄めでうっかりすると酷薄そうな印象になりそうだが、口角の上げ方は優しげでちっともそうは思えない。
思えば昔からそこらの女の子より綺麗な顔立ちだった。同じクラスの女の子たちが、こぞって「おままごとしよう!」と誘うくらい。でも本人は男の子や男の先生と遊ぶほうをいつも選んでいた。可愛らしい笑顔の、新島くん。

『あの時は、助けてくれて本当にありがとう』

新島くんは頭を下げた。私は心臓がバクバクして、手足が指先から冷えていくような気がした。いや、気がした、どころか実際にそうなっていた。

『君があいつを殺してくれたおかげで、地獄から解放された』

人を殺しておいて誰かに感謝される。そんなのは、物語の中だけだと信じていた。母さんがよくテレビで見ている時代劇にある、罪のない人々を虐げる悪人を誅殺する集団のお話。あれはこの社会で“殺人は悪”だと認識されているからこそ成り立つものだ。現実で同じ真似をすれば捕まって裁かれる。

『私、やっぱり……!』

その先は言葉にならなかった。というより、できなかった。恐ろしくてどうしようもなかった。自分の罪を認め、口に出してしまうことが。

『どうしたの、真っ青だよ』
『私の、したことは』
『そうだね、犯罪だ』

でも、と新島くんは続ける。

『僕を助けようとしてしたことだ、そうだよね?』
『……あの、私』
『僕は……ずっとあいつに“イタズラ”をされていた』

突然の告白に、私はまた何も言えずに固まった。

『すごく、辛くて……怖かった。最初は、頭を撫でたり、肩を叩いたりするだけだったんだ』

それも段々とエスカレートしてきて、と暗い眼差しが床に落とされる。

『誰にも言えなかった。内緒だよって言われて……大人の言いつけだからって、守らないといけないって思い込んでたんだ』

馬鹿だよね、と自嘲する彼の手を、私は両手で握り返した。せっかく拾ったファイルだとかがまた落ちてしまったけれど、構うものか。

『馬鹿なんかじゃない。そんなこと……誰にも言わせない』
『橋立さん……』

馬鹿なのは、絶対に反撃してこない存在を狙った卑劣な大人だ。彼が苦しむ必要がどこにあるのか。
そうは思っても、新島くんがあの当時受けた傷を私が癒せるはずもない。誰も、親であってもそれは同じだ。その傷がずうっと塞がらないまま血を流し続けているのだと、彼が自らを嗤う声から悟った。

『橋立さんは……ずっと僕にとって女神みたいな人だった』

間違ってなかった。
新島くんはうっそりと笑う。私はいきなり“女神”だなんて言われて、反射的に首を横に振った。結果的に彼を助けたことになったとしても、そんな賛辞を受ける謂れはない。

『あの後、事件が公になって閉園して……僕は、僕たち家族は遠くに引っ越したんだ』
『そう……』
『お礼をどうしても言いたかったんだけど……あの幼稚園に関わるものは全部捨てられてしまったから、手がかりも何も無くなって……』
『その……カウンセリングを受けたりして当時の記憶が薄まったりはしなかったの?』

私は話題を少しでも変えたくて、生半可な知識を総動員させた。幼少期のトラウマを封印して成長する──そうした事例を本で読んだことがあった。

『うん、カウンセリングは受けた……でも忘れた日なんてなかった』

新島くんは両眼に真剣な光を宿した。

『恩人のことを、忘れるなんてできない……石をあいつの頭に落としてくれなかったら、僕は卒園までずっとあいつのオモチャだった』

私はおずおずと、でもしっかりと彼の目を注視した。そこには力強さだけがあって、嘘や偽りは微塵も見当たらない。──心の底からの、感謝だった。

『橋立さん、色々話したいこともあるし、食事にでも──』

その先の言葉は聞けなかった。
お互いの社内通話用端末が鳴り出したのだ。

『ごめんね、私、資料探さないと』

私は上擦った声を出しながら、床に散らばったファイルと紙束をかき集めて新島くんに手渡した。彼が受け取ると同時に電話に出る。いつまでも戻ってこない私を心配した同僚からの連絡だった。

『もしもし、斉藤ですけど……もしかして資料なかったですか?』
『ああ、大丈夫です。赤いファイルのやつですよね? さっき見つかりました』

聞こえてくる申し訳なさそうな口調に、素早く移動しながら答える。事実、上司から教えてもらった書棚に目を通せば、赤いファイルはそれしかなくて目立つからすぐに見つかった。

『すぐ戻ります。失礼します』

ファイルを書棚から引っ張り出すと、銀色の携帯電話を握りしめて急ぎ足でドアへと向かう。新島くんにちゃんと挨拶もしないままなのは気になったけど、今は仕事の時間だ。
私のプライベートに何が起ころうと、仕事は待ってくれない。しっかり集中しなくては。
そうだ。私の過去と私の仕事は一切関係ないんだから、新島くんが何を言ってきても動じてはだめだ。
私はシャワーを止めると髪と身体を洗った。白茶けたセミロングが肩や肩甲骨に張りついて少しだけ鬱陶しい。

『橋立さん、お疲れ様です』

新島くんが挨拶と一緒に、優しく肩に手を置いた。その場所に、無意識に自分の手を添わせる。
新島くんと再会した日、私はちょっとだけ残業して部署を出た。一人きりで、ゆったりとした足取りでロビーを進む。パンプスの先とくゆる煙のような模様の床ばかりを見ていた私は、まさかの人物に声をかけられて短い悲鳴を上げてしまった。

『新島くん』
『すいません、そこまで驚かれるとは思ってなくて……』

資料室とは打って変わって、丁寧なですます口調になっている。まばらとはいえ人影はそこここにあるし、気を遣ってくれているのだとわかった。私も彼に合わせて丁寧な口調で応対する。

『いいんです。私もぼんやりしていて……びっくりさせてしまって』

軽く頭を下げて謝罪の意を示す。うっかり“新島くん”と呼んでしまったけど、これからは“新島さん”呼びにしないと。

『明日はお休みですしね』
『ええ。新島さんは、何かご予定は?』
『こっちに来たばかりですから、少しここについて勉強しようかと』

勝手は違うでしょうし、と控えめに微笑む新島くんは、私の歩幅に合わせて横に並んでくれた。そのまま会社の自動ドアを抜けて、木枯らしが吹き抜けるオフィス街を歩く。

『新島さんも残業ですか?』
『実は、親会社からの出向でして……業務に関して復習していたんです』
『親会社からの……ああ、企画部のイベントですか?』
『はい。一年ほどお世話になる予定です』

ここの威信をかけて行われるというイベントに、親会社からサポートが入るという話は朝礼で聞いていた。何人ぐらい入るのか、どこの部署の誰が入ってくるのかまではわからなかったが、企画部から伝わってきた噂ではイケメンと美女が入ってきたということだった。
それ以外の情報は……信憑性があまりないように思えた。本社でやらかしたから子会社であるこっちに回されてきただの、美女がイケメンを追っかけてサポートに立候補しただの、いや逆にイケメンが美女を……だの、人間てやつはとことん噂話が好きなんだなぁと、斉藤さんと二人で力無く笑ったっけ。

『うちは経理だから、そこまで関係はないよね』
『だからああだこうだ好き放題言えるんだろうね』

休憩室で、缶コーヒーを傾けながら駄弁った記憶が蘇る。
あの時は、まさか新島くんがやってくるとは思いもよらなかった。

『この時期にサポート入らないといけないって……大変ですよね』
『まぁ……これだけ大きいイベントだと、普通はもっと前に春とかに入ってくるもんですしね』

この中途半端な時期に降って沸いた計画だったようで、企画部はもちろん、経理までがてんてこ舞いだった。特に経営計画や予算担当の目は日に日に死んでいったし、決算や出納の人たちまで駆り出される始末。
私も終電間際まで忙しなく動き、アパートには寝るためだけに帰るような生活が続いた。母からの電話を無視できるのはありがたかったが、正直そのぐらいしか嬉しいことはなかった。むしろ母からの「いい人はいないのか」攻撃のほうがいくらかマシだとさえ思った。
それもどうにか落ち着いて、親会社からのサポートを受け入れる体制が整い、経理の皆も忙殺地獄から解放された。その勢いで飲みに行って結局終電を逃してしまったのは記憶に新しい。
だけど一番キツかったのは企画部だと思う。後輩の同期に企画部の子がいて(関さんというそうだ)、その子曰く、会社にキャンプ用品を持ち込んでいた人までいたらしい。
又聞きだし、大袈裟に言っている可能性もある。それでも当時の凄まじさをしっかり表現できているんじゃないだろうか。

『受け入れが整うまで大変だったと聞きました。……本当にありがとうございます』
『とんでもない。私たちは仕事をしたまでですから』

全員が冗談抜きで死にかけました。とは絶対に言わないし、顔にも出さない。本音と建前は使い分ける。それが社会人だ。
なんともやるせない。
新島くんもそこは十二分に理解していて、眉を八の字にして目礼してきた。彼のせいではないのだし、そこまで気に病まなくても……と思いつつ、涙袋がぷっくりしてそこらの女子より可愛いな、と妙な嫉妬心が湧いてきた。

『その、うーん……ここからはプライベートな話になるけど、いい?』

歩道に等間隔で並んだ街灯が、新島くんと私を照らす。私は今どんな顔をしているのか、自分でもよくわからなくて、でも見せられない顔になっているんじゃないかと怖くて、歩道に敷き詰められたレンガ風の石に視線を落とした。

『……いいよ、どうぞ』
『ありがとう』

新島くんはひと呼吸置くと、徐ろに話し始めた。

『……資料室の続きなんだけど』

やっぱりな、と当たってほしくない予想が当たって、私は鞄を握る手に力を込めた。

『二人で、食事にでも行かない? できれば個室で』

手足が先のほうから冷えてくるような気がした。周囲の景色が、音が、諸々が遠くなる。
そのくせ、“その声”はいやにはっきりと、するりと耳の中に入ってきて、私の心臓を氷の手で鷲掴む。

──人殺しのくせに、幸せになれるとでも?

嘲笑と嫌悪が耳たぶをくすぐって、背筋から足下まで一気に駆け降りた。無意識のうちに立ち止まっていたらしく、私は頭半分ほど上にある新島くんの顔をじっと見つめていた。
濃紺で無地のマフラーと、黒くて少し猫っ毛の髪に縁取られた輪郭の中に、上気した頬と目元がある。唇を真一文字に結んだ表情は、まるで恥じらいながらも母に感謝を伝える子のようだ。
ほんわかした気分になってしまったのがわかったらしい。新島くんはますます顔を赤くして視線を逸らした。ああもう、一々かっわいいな。

『その、無理でなければでいいんだ。今日明日行こうって意味でもないし。ホント、できればだから』

変な意味でもないから、とよくわからない言い訳を並べるこのイケメンに、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ絆されてしまった。

『いつにする?』
『へ?』
『来たばっかりで忙しいだろうから、再来週とかにする?』
『あ、えっと、待って!』

スマホで予定を確認する彼を見て、私も同じようにスマホを取り出して予定を確認する。この週ならどの日でも──何かトラブルでも起こらない限り──大丈夫だろう。
私がスケジュールアプリを見せると、新島くんは「そしたらこの日にしよう」と指を差して提案してくれた。予約とかは特にせず、適当なチェーン店に入ろうと先手を打つと、ちょっぴり残念そうな顔をしながらも頷いた。

『新島くん、どこの駅使うの?』

私がまた歩きながら訊ねると、

『ここから先の……あの横断歩道渡って、左に曲がったとこ』

と答えたものだから、同じだ、と返した。

『さすがに路線は違うよね?』
『俺は上り』
『私は下り』

うん、違うね。そう肩をすくめると、彼も肩をすくめた。私たちは喉奥で笑いながら、未だに明るいビルの谷間をのんびりと歩く。横断歩道を渡って、左に曲がればすぐそこに地下鉄への階段が目に入った。
私がさりげなく後ろになって、1列で階段を降りる。銀色の、鈍く光る手すりを頼りに、革靴の踵を踏まないよう細心の注意を払う。
今でも、高いところは怖い。
床が抜けて落ちたら、足を滑らせたら。そんな最悪の未来を想像するのではなく、あの光景を嫌でも思い出してしまうからだ。
今まではその度に、夢だ妄想だと思い込んできたけど、今回は新島くんがいる。しかも、あれは夢でも妄想でもなく現実で、私は人を殺めてしまっていた。
……ちゃんと、階段を降り切れるだろうか。
気絶とかして新島くんに迷惑をかけませんように。
半ば祈るような気持ちで、機械的に足をテンポ良く階段に乗せる。
無心になってクリーム色に灰色の滑り止めをつけた階段を降りていると、しゃがれた男の声がした。

『人殺し』

思わず振り向けば、焦げ茶のジャケットを着た小太りの男が階段を上がっていくのが見えた。肩を丸めて、寒そうにも疲れているようにも見える。
……いや、疲れているのは私か。
新島くんとの再会は、思ったより負担がかかっていたらしい。幻聴が聞こえてくるなんてかなりヤバい。明日はしっかり休もう。
そう決心しているうちに、私たちはもう階段を降りていた。

『具合悪い?』
『え、ううん。大丈夫』

さっきの幻聴を見透かされたのかと怯え、首を小刻みに横に振って否定する。週末だから、疲れが出てるから、としどろもどろになって理由を述べれば、新島くんは顔を前に向けたまま訥々と話し出した。

『俺には、会いたくなかったよね』
『え』

どうして、と掠れた声で問いかけた私に、暗くて低い声が落とされた。

『嫌なこと、思い出させたと思う』

雨が降り始める時のような、水滴が一滴ずつ落ちてくるような感覚。
喉元まで迫り上がった焦燥感は、私に月並みな言葉しか与えてくれない。

『そんなことない』

新島くんは口角を微かに上げた。

『ありがとう』

ああ、見透かされている。
私が過去の記憶に苛まれていることや、新島くんとなるべく接触しないように残業して、帰宅時間を遅らせたことも。
たった五文字に込めた意味を、受け取ってしまった。

『じゃあ俺、こっちだから』
『……うん、じゃあね』

震えた情けない声ではなかっただろうか。自然な笑顔は作れていただろうか。挙動不審ではなかっただろうか。
慣れた改札を通りながら、一人きりの反省会を頭の中で繰り広げる。
来週、どんな顔して会えばいい? 普通の顔? 普通の顔ってどんな顔だっけ。上司や同僚や先輩後輩に向ける顔。でもそれってどんな顔だった?
ちらほら立っている人も見かける車両の、運良く空いている席に身体を沈めた。乗り換えの駅までは十五分くらいだったから、それまで反省会及び対策会議を続行する。

『人殺し』

それもすぐに終わった。
隣りに座る、若い女の子を視界の端に留める。だらしなく足を広げて脱力しているが、ジーンズを履いているので誰も気にしていない。これはまあ見事に熟睡しているが、目的の駅に着いたら起きられるのか心配になる。
もしかしたらもう過ぎているのかもしれないが。
とにかく、彼女が言ったわけではないことがわかった。
私が座っているのは端の席だし、ドア付近には誰も立っていない。要するに、また幻聴だ。
絶望しかけた私の耳に、乗り換えの駅名を告げるアナウンスが響いた。


それからどうやって帰ってきたのか、ちっとも覚えていない。アパートが見える小径で、ふと我に返った。足は止まらずに、入り口へと近づいていく。
慣れた身体が勝手に動いてくれたのだろうとは思ったけれど、よく事故にも事件にも巻き込まれなかったな、と自分の運の良さに感謝した。
私はアパートの入り口にある、自室のポストを開けて中を確認した。ダイレクトメールが二通、それからメモ用紙が入っていた。

『人殺し』

その場で破り捨てなかったのは奇跡だと思う。
辺りを見回して誰もいないことを確かめると、私は息を潜めて、あえてゆっくりとした足取りで二階への階段を上がった。
自分の部屋に入り、電気をつけて鍵とチェーンをかける。暖房器具をつけるのもそこそこに、私はその場でメモ用紙を広げた。手書きではなく、パソコンから印刷された味気ない字だった。

『人殺し』

そうだ。
消しようのない、純然たる事実。
私は、人殺しだ。
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