姐さんって、呼ばないで

あの事故の日。
本当は彼と、正式に別れるつもりでいた。

両家の関係を、私の一言で清算できるとは思ってないけれど。
あのままずるずると関係を結んだままではいけないと思って。

だから、記憶を失ったのか。
彼との想い出にけじめをつけるきっかけが欲しくて、そう脳が思い込んだのか。

大好きなのに、好きでいることが辛くて。
そばにいて欲しいのに、私がそばにいるのはいけないと思って。
嫌いになれないのに、あの日、『もう嫌いになった』と言おうと心に決めていた。

あたたかい手。
優しい眼差し。
抱き寄せる力強さ。
伝わる鼓動。

私の決心が正しかったのか、間違っていたのか。
私は彼の記憶を手放したのか、封印したのか。

今となっては分からずじまいだけど。
一つだけ分かることがある。

記憶を思い出しても尚、彼を嫌いにはなれないということ。

好きすぎて、体中に収まりきらなくて。
ずっと触れていたいとさえ思えるほどなのに。

『別れる』と決心したあの頃の気持ちが蘇る。

不安を打ち消せる何かが欲しい。
彼を好きでいていいと思える自信が欲しい。
そばにいていいんだと実感できる安心材料が欲しい。

「仁くんっ」
「……煽んな」

別れを切り出したことで、無条件で彼を傷付けた。
記憶を失っていた一年の間に、彼が別の人を好きになってくれていたら……。
こんな風にまた苦しまずに済んだかもしれない。

ううん、違う。
彼が私以外の誰かを好きになってたら、たぶん相当ショックを受けたはず。
だって私は今も、こんなにも彼が好きだから。

優しく重なる口づけは、蕩けるように甘く、そして彼のあたたかい体温が伝わって来た。

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