唇から始まる、恋の予感

幸せの意味


私が考える幸せは、整形をして綺麗になり、今迄出来なかったことを全部やることだった。それは間違いだったことに気が付くことができたのは、部長を好きになったからだ。一人が好きで、一人で生きていけると疑わなかったけれど、なんでそんなことを思っていたのかと思うほど、一人が寂しくてしょうがなくなった。
職場でも視線の先には部長が座っていて、つい見てしまう私の視線を感じるのか、仕事中に視線を交わしてしまうことが多々あった。そこで終わってくれる時はまだいいけれど、たまに微笑みを返してくれる時は、周りにばれてしまうとヒヤヒヤして、めまいを起こしそうになる。
昼も一緒に食べるようになった。
まだまだ他の人とは無理があるけれど、部長の前だったら家族と食事をする時のように、素の私でいられた。

「白石が変わると、周りも変わるから見ててごらん」

少しずつでもいいから変わりたいと言った私に、部長が言ってくれたことだけど、それは本当なんだと言う出来事があった。
ヘアスタイルを変えて、めがねを取った私は、少しずつ服装も変えていた。目立つ変化は何か勘ぐられてしまうのも嫌なので、ブラウスからニットのアンサンブル変えるとか、綾香にアドバイスをもらいながら変えていっていた。

「お疲れ様です」

給湯室にコーヒーを入れに行き、同じくコーヒーを入れていた女子社員に挨拶をした。トイレでも給湯室でも誰かがいることはとても窮屈に感じていて、それは今もあまり変わらない。私が行くところに誰かがいると、時間をずらしてもう一度行くという、バカみたいな手間をかけていたけれど、それをしなくなったことは、もの凄い進歩だった。

「お疲れ様です」

挨拶を済ませると、無言の息詰まる空間の始まり。早くコーヒーを入れて給湯室を出なくちゃと思っていた。

「白石さん」
「は、はい!」

身構えていたからか、予想しない声かけに大きな声が出てしまった。

「す、すみません……あの何かしましたでしょうか?」

何か文句でも言われるのだろうか。何かしてしまっただろうかと悪い想像をして心臓がバクバクする。

「いいえ! そうじゃなくて、最近変わったなと思って、あのお綺麗だなって」
「え……?」
「ヘアスタイルもとてもお似合いで素敵です」
「あ、ありがとうございます」
「あの、それだけです。すみません、引き留めてしまって」
「いいえ」

自ら接触を拒んでいる職場の人達で、入社以来、仕事以外の接触は一切してこなかった。私はそれを望んでいたし、それが気楽で仕事がしやすく、生きやすかったからだ。
恋する気持ちが私を変える。
精神論じゃないけれど、恋って凄い。長い年月、頑なまでに自分を否定し、いじめの呪縛に縛られていたのに、部長を好きになったことでその大半が壊れた。
身体に何重にも巻きつけられていた鎖がほどけた瞬間は、自分の顔が違って見えた時だったのだろう。

「嬉しい」

給湯室で一人にやけてしまう。

「その笑顔を俺にも見せてほしいんだけど、その笑顔にさせたのは誰なんだ?」
「部長、し……」

私は思わずしっと、口に指をたてた。誰かに聞かれてもしたら大変なことになる。
給湯室は小さいながらも機能的に、冷蔵庫、電子レンジ、食器棚、電気ポットがあり、流しにはIHコンロが一つある。
頻繁に社員が出入りするし、扉はなくオープンなので、誰かに聞かれたり見られたりする非常に危険な場所なのだ。

「あそこに来て」
「わかりました」

あそことは、給湯室の横にある非常階段で、部長が話があるという時は、そこに行くことになっている。誰かがくれば足音が響いて分かりやすいというのが、そこに行く理由だけど、会社内はどこにいても注意を払わなくちゃいけないと思う。警戒心の強い私に対して、公になってもいいというスタンスの部長で、少し言い合いになってしまうこともある。この私が、感情を出して部長に意見を言うなんてと思っていたが、最近になって思うのは、そう言えるように仕向けているんじゃないかと考えている。

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