唇から始まる、恋の予感
カップをデスクに置いて、非常階段に行く。
そっと扉を開けると、一階段上がった踊り場にコーヒーを飲んでいる部長がいた。

「どうしたんですか?」
「何か言われたのか? 大丈夫か?」

いつでも私のことが心配らしく、気にかけてくれているけど、気にしすぎて部長が心労で倒れないか心配でならない。早くその心配をしないようにさせてあげたいけれど、なかなかうまくはいかないものだ。

「褒められたんです。綺麗だって」
「褒められたのか?」
「ヘアスタイルが似合ってるって言われました」
「良かったな」
「だから心配しないでください、何か言われたらすぐに部長に言いつけますから」
「そうだ、言いつけろ、俺がそいつを罰してやるから」
「お手柔らかにお願いしますね」
「おいで」

部長に呼ばれて傍に行くと、抱きしめられる。

「癒される……」
「戻りませんと」
「一緒に帰ろう」
「帰れるんですか?」
「……無理だな、ごめん」
「いいんです、毎日顔が見られますから、それだけで」

部長の言う通り私が変われば周りが変わっていく。私は悪くないのに、なんで私が変わらなくちゃいけないのかと思っていた部分もあった。意固地にならず、部長の言うことを信じて行動したら、良い方向に物事が進むようになった。
もう一つ気になっていた川崎さんだけど、私が有休を取っているときに、居眠りを係長に注意されたらしく、居眠りをしてしまう原因は、仕事に対するプレッシャーで、自分は仕事が出来ないと悩んで、夜が寝付けなかったらしい。
私が見ても仕事が出来ない人じゃないし、ゆっくりだけど、几帳面に仕事をしている。それだけで十分だと思うけど、向上心がある川崎さんならではの悩みだったようだ。
私は先輩でありながら、関わりたくなくて見て見ぬふりをしてきたけれど、これからは私に出来ることはサポートしていきたいと思う。こんな風に思えるようになったのも、上司として私を見守ってくれた部長という存在があったからだ。
部長はとても忙しい人で、最近の口癖は「時間が取れなくて悪い」だけど、私は急に他人と時間を共有するようになって、自分の時間が欲しいと思うくらい、とても忙しく感じていた。全ての時間が自分のものだった年月が長すぎて、少し息つぎが出来るくらいでちょうどいいと思っていたところだったし、不満は一切ないけど、部長がとても気にしていた。

「今度の週末、海に行ってみないか?」
「まだお疲れが抜けていないんじゃないですか? 週末は休まれた方がいいですよ」
「離れていた時間を考えたら、毎日一緒にいても足りないくらいだ」

私が恥ずかしがるのを楽しんでいるみたいで、いつもそんなこを言ってからかう。
やりたいことリストには海に行きたいと書いていた。私のやりたいことリストは沢山のやりたいことで埋まっている。偶然にも一番に書いたのは海に行くことで、部長と行きたいところが一緒なんて、ちょっと嬉しい。
でも、まだ自分からは部長を誘ったりできなくて、こうして誘われたり、聞かれたりしないと言えないでいた。

「海……海に行きたいです」

身体を攻撃の対象とされていた私は、全身を隠す洋服を着ていた。海やプールは毛嫌いしていたけれど、本当は行きたくて、行きたくてしょうがない場所だった。


「いいね」

私と部長の付き合いはまだ遠慮が抜けないけれど、少しずつ前に進もうと部長が言ってくれたので、マイペースに進んでいこうと思っている。



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