恋愛期限
色々と違いすぎます。
 健斗君が言った通り、マンションに着いたのは約一時間半後の五時四十分位だった。
 まだ十分陽はあって、明るい。
 あれから健斗君は車の中で私の存在が無いみたいに日向さんと仕事の話をし始めた。
 もちろん内容はさっぱり分からなかったから私も口を出すのを控えていて、その結果、つまる所要するに、何も言葉という言葉一を切交わさずにここまで来たんだけど。
(何これ、凄っ)
 車から降りた場所にあったそのマンションを前にして、私は目をぱちぱちとしばたたかせた。
 最上階を見ていると首がもげてしまいそうになる空高く聳え立つ明るい茶系の建物。
 劣化した様子もほとんど見られないし、手入れも多分行き届いている。
 世間にこういう場所がある事は知識としては知っていたけど、でも実際にこうしてお目にかかる事なんて無いと思っていたし、一生自分には縁なんてないと思っていた。
 立ち尽くしている私の後に続いて、健斗君が路肩に停めた車から降りてくる。
「明日仕事何時から?」
 後部座席に一緒に乗せていた紙袋を三つ片手で持って、健斗君が私の方を振り返った。
 さらりと言われてしまった。さらりと言われてしまったけれど、親切そうに見えて逆に結構とんでもない内容だった。
 明日の仕事の予定って、つまり今日帰す気が全く塵ほどもないっていう、そういう意味になるのでは。
「待って、私今日帰るけど!」
 何となく流れでここまで付いてきてしまったけれど、この事態を穏便に済ませる為あくまで少し話をするのが目的だったのであって、それ以上の意図は無い。あってもらっては困る。
「そんなつもり全然、ないから!第一何も用意してないし」
 持っているショルダーバッグの中身は、コンビニ勤務で使った制服と休憩中に飲んだ飲み残しのお茶のペットボトル、ちょっとしたメイクセットの入ったポーチ、財布がせいぜいで。
「着替えとか……」
 上手い口実を作って逃げようとした私に、健斗君は持っていた三つの紙袋を無言で差し出してきた。
 目くばせで受け取れ、と合図してくる。
 促されるまま私は受け取って、まじまじとその紙袋を見る。
「一応、当面必要そうな物は多分揃えさせてあるから」
 へ?と私は健斗君の言葉に一瞬クエスチョンマークを浮かべた。
 だけど、すぐにその意味を理解して、また私はパニック状態になる。
「……これ私の?」
 ようやく絞り出せた声に健斗君が呆れたみたいに紙袋を指差した。
「それ、レディースショップのロゴだろ全部」
 そ、そうなのか。今まで自分の生活でいっぱいいっぱいでそんな物を気にかけている余裕無かったから知りませんでした、てっきり貴方の物だと――という話は置いておいて。
 私は貰った紙袋を開いて、中を覗いて見る。
 中身は数点の部屋着と下着。トラベルセット。――確かに全て女性ものだ。
 お洒落な紙袋に実に似つかわしくない、奪われたままだった私の眼鏡も入っている。
「何か他に必要な物があったらすぐ用意させるし」
 問題ないだろ、と健斗君が例の怖い視線を向けて来たから、そんなの口実で単にあなたから逃げたかっただけです、なんて言えなくなってしまった。
「で?明日仕事だよな?何時から?迎えいるだろ」
 もう一度、振り出しの質問を健斗君がぶつけてくる。
 騙されない。馬鹿みたいに答えたりしない。下手に言葉を発したら取り返しのつかない事になる。
 ようやく学習した私は唇を結んで無言を貫き通した。
「何時から?」
 三度目の問いは今日一番のゆ~っくりとした低い声だった。
(い、言わない言わない言わない言わない言わない言わない言わない……!!)
 恐怖心に耐えながら、呪文のように心の中で何度も繰り返す。
 すると、健斗君はくるりと身を翻して運転席車にいた日向さんに言い放った。
「日向。お前今日はどっか近くのホテルに泊まれ。いくつかあるから。で、また連絡するから呼んだらいつでも出られるようにしとけ」 
「分かりました」
 日向さんはこくりと頷いた。
(――え)
 普通に交わされたけど、このやり取りって。
 事態がまた悪化しそうになっている。私はとっさに白状していた。
「六時!朝六時からです!」
 人様を巻き込む訳にはいかない。このままでは私のせいで日向さんをホテル宿泊民にさせてしまう。
「じゃ、迎えの時間は朝の四時半位?朝だから道路空いてるだろうしそれで間に合うだろ」
 それでいい?というニュアンスで健斗君は私に確認してくる。
 こくり、と私は一つ頷いた。
「――て事で。明日四時半にここ」
 私の対応で百八十度ひっくり返ってしまった指示を健斗君は日向さんに伝えた。
「はい」
 全く動じた様子もなく、日向さんはそれを受け入れている。
 いつもの事なのだろうか。
 とりあえず無事に日向さんには今夜自宅に帰ってもらう事が出来そうでほっと胸を撫で下ろした。
「それでは明日、またお迎えに上がりますので」
「あー、あとさっき話してた会議の資料。明日の午前中までに適当にまとめといて。ざっくりでいいから」
 ついでみたいに付け足して、健斗君が言う。
 そういえば車内でそんな会話をしていたな、と数十分前の記憶が少し蘇ってきた。
 右から左に聞き流してたけど、でも明日の午前中までっていうのはかなりハードなんじゃ。
 何も知らない私が判断するのもおかしいんだろうけど。
「分かりました」
 でも、これもまたあっさりと了承して日向さんは車を発進させて去って行く。
 残されてしまった私は、横に並んでいる健斗君に視線を送った。
「こっち」
 言葉に誘導されるまま、健斗君の後を追う。
 自動ドアの前までいくと出迎えるみたいにドアが開いて、風除室を抜けると優しいオレンジ色の光が灯るエントランスが広がっていた。
 フロントに立っていた中年の男性がこちらに一礼してくる。
 コンシェルジュさんってやつだろうか。これ。
(何この世界……)
 今まで生活してきた環境と余りにも違い過ぎる。
 どう振る舞えばいいかも分かったもんじゃない。
「……凄いね、ここ。まさに憧れの場所、って感じ」
 ソファーや観葉植物の置かれたフロアを通ってエレベーターの前に立ったのと合わせて、率直な感想が口から零れ出た。
「そーでもねーよ。エレベーターは渋滞するし、それなりに騒音もあるし。ウザい噂話とか聞こえてくるし。住んでみれば結構面倒くさい事もあるぜ?」
 私の言い分をやんわりと否定した健斗君は苦笑いする。
 そして乗場ボタンを押してエレベーターを呼び出すと、点滅場所を変えていく階数表示器を見つめながら、
「――養護施設(あのとき)が一番良かったな」
 と、ぽつりと付け足した。
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