恋愛期限
話をしましょう。
 11のランプが表示された階でエレベーターを降りると、室名札が114と書かれた扉の前で健斗君は立ち止まった。
 歩きながらポケットの中から取り出していた鍵で扉を開ける。
「どーぞ」
 促されて先に足を踏み入れると、白い壁に囲まれた空間が出迎えてくれた。
 よくあるスタンダードな配色の家だった。 
「お邪魔します……」
 後ろで待ち構えている健斗君の前で靴を脱いで揃えて、私はそろそろと床に上がる。
「そのまま真っ直ぐ。突き当りの部屋な」
 背後で靴を脱ぎながら健斗くんが口だけでそう案内する。
 茶色のドアがあった。
 背後に並んだ健斗君のペースを伺いつつ、戸惑いつつも一緒に歩を進めていく。
 ドアの手前まで来た時、にょきっと手が伸びてきて健斗君がノブを下ろした。
 一連の流れで長い腕でドアを押すと、せき止められていた視界が広がって、中の部屋がオープンになる。
(うわ……)
 造りとしては特に変わった所はない、一般的な部屋だった。
 だけど、いかんせん広い。広すぎる。
 私の今住んでる所の軽く十倍はないか、ここ。
「ご、ご家族とかと一緒に住んでる?ここ」
「な訳ねーだろ」
「……ですよね」
 聞かなくても雰囲気で分かった。自分もそうだからだろうか。
 広さはあるけど、これは誰かと一緒に過ごしてる空間じゃない。ワンルームだし、他の人物の存在を匂わせるものが全然見当たらない。
 たった一人でこんなだだっ広い部屋を……という心情が思いっきり顔に出てたらしい。
「どこでどう見られてるか分かんねーんだよ。一応体裁取り繕っとかないと」
 健斗君がそう呟いた。靴を脱いで私の後ろに立つ。
「あの人達に恥はかかせたくねーし。一応、今まで育ててもらったから」
「……今の、ご両親?」
 今の、と付けたのは健斗君には実際のご両親が存在したはずだったからだ。
 事故で両親を失って施設に入った私とは違って、健斗君は生みの親に育児放棄されて施設に来た子だった。
 健斗君が十三年前のあの時、凄いお金持ちの所に引き取られていったって事は養護施設の先生に聞いて知っていたけど(それでもまさかここまでとは思ってなかったけど)。
「そ。それなりに良くして貰ってるからな。――あ、適当に座っとけ。コーヒーでいいか?」
 健斗君がそう言ったので私は頷いて遠慮なく目についた黒のソファーに腰掛けさせてもらった。
 だって、お手伝いしますという義理もないし。もちろん私が淹れるからという間柄でもないから、そうするしかない。
(あ、でも……)
 手に持っていた三つの紙袋を目にして、これのお礼位はするべきなのだろうか、という考えがふと頭をかすめた。
(いやいやいや、別に頼んで無いし!勝手に連れて来られただけだし!)
 うん、やっぱり必要ない、という結論に至って、私は荷物を床に置いてぶんぶん、と首を横に振る。
「……どした?」
 健斗君が急に現れて、私はびくりと肩を竦ませた。
 いや、正確には別に本当の意味で健斗君が出現した訳ではなくて、私がへ変な世界にトリップしていただけなんだけれど。
 こちらとしては色々と考えを巡らせていたのだけれども、そんな事分かるはずもない健斗君にはさぞかし今の自分の行動は奇怪に見えた事だろう。
 気持ちを落ち着ける意味も込めて、私は紙袋の中に入っていた眼鏡を取り出してスッと装着した。
 うん、よく見える。
「ご、ごめんなさい」
 やっぱり視界がクリアになると頭も冴えてくる気がする。
 みっともない所を見られた気恥ずかしさで少しどもりながらも、私はしっかりと詫びを入れる事が出来た。
「いや、別に謝ってもらう必要はねーけど」
 今度は健斗君の方がどもっている。
 手に持ってきたグラスに入ったアイスコーヒーを近くのガラステーブルに置いて、私の前に差し出してきた。
「あ、ありがとう」
 一応の礼を言いつつも、それを目にした私はほんのちょっとだけ困惑していた。
 (うわ、これ見事に真っ黒な液体……)
 クリーミーさはどこ?と探し求めてる私を尻目に、健斗君は隣にどかりと腰を下ろすと、ためらいなく自分の分のブラックコーヒーに口をつけていく。
 せっかく淹れて頂いたものに文句もつけれなくて、私もそれに素直にならうしかなかった。
 ――う、苦い。飲みにくい。
「で、荷物だけど。他に必要な物とかは?マジでない?」
 コーヒーを飲み干した後で、健斗君がスーツのネクタイを緩めながら私に訊ねて来た。
 自宅に戻って仕事モードが切れたのか、幾分か刺々しさが無くなっている。
 この分だと少しは会話が成立させれるかもしれない。
 私はほんの少しだけ飲んだコーヒーをテーブルに戻して意を決した。
「それは、その、大丈夫。大丈夫っていうか、せっかく買って貰ってたけど、私あなたとどうこうってつもりはなくて。ここに住む気も全然なくて」
 よし、まず伝えなければいけない事は伝えれた。
 いいぞ私、この調子だと、私は自分で自分に心の中で拍手とエールを送る。
「その、あなたが健斗君だって事はもう分かったし、疑ってないけど。約束の事も、もちろん忘れてないけど」
 あの時の約束はあの時なりに真剣だったし、決して軽い気持ちでもなかったけれど。
 でも、それはあくまでもやっぱりもう過去のものでしかない。
「あれから、十三年経ってるから。今の私たちは昔と違うと思う」
 そう、これは可愛い綺麗ないい思い出として、お互い消化すべき問題なのだ。
 それが多分普通で、一般的。
「で?」
 それまで口を閉ざして一通り私の話を聞いていた健斗君がたった一文字の発言でさらに私の発言を促す。
 あ、あれ?何かまた嫌な雰囲気になってしまっているような。
 先を促してるはずなのに、逆にその先を言えるものなら言ってみろ、という無言の脅迫を感じるのですが。
 じっと私を見つめてくるその目、睨んでるみたいに見えるのですが。
(怖いっ)
 ――もう嫌だ。せっかくまともな会話を期待したのに。
 最後の一番重要な部分を言えないままでいると、健斗君が代わりに切り込んで来た。
「――だから?『あの約束は無かった事にしろ』って?」
 それは痛烈かつ核心をついた一言だった。
 肯定の意味を込めて、私は沈黙で返す。
 健斗君から言ってくれて助かった安堵と、(一応)勝手な要望を通してしまっているという僅かな罪悪感。
 この空気、いたたまれない。
 でも、例えいたたまれなくても、今目の前のこの人との未来はやっぱり今の私には想像出来なかった。
 出来ないものは出来ないのだから、仕方がない。
「ふざけんな」
 健斗君が短く告げた。
 切って捨てるみたいな鋭い言い方に、私は圧倒されてしまった。
 こっちの言ってる事とやってる事の方が間違っていると勘違いしそうになりそうだった。
 そのレベルの断定的な言い方で、明らかに怒りを含んでる。
 ぴぴぴぴぴ、と着信音が鳴った。
 どこででも聞くような、定番の音だ。
 面倒くさそうに息を吐いて、健斗君は自分の胸ポケットに閉まっていたスマートフォンを取り出し、画面を見る。
「――はい、何?」
 ソファーから立ち上がって私から二メートル位の距離を取って背を向けると、健斗君は電話を掛けて来た相手と話し始めた。
「え?……どーゆー事?それって昨日の話だろ?だからそれはダメだって。この前もだったろ。――とにかくそれお前の方でうまく片付けとけよ日向」
 どうやら電話の相手は日向さんらしかった。
 さっき別れたばかりのはずなのに、また仕事の話か。
 会話の内容からするに、想定外のトラブルが起こっているみたいだ。
(そっちも、か……)
 健斗君は健斗君で色々とトラブルを抱えているらしい。
 本当にどうしてトラブルってこう立て続けに訪れるんだろうと、今の自分の境遇と重ねつつ、私はしみじみ思った。
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