恋愛期限
やっぱりよく分かりません。
 神様、大変申し訳ございません。私、大変罪深い、美しくない行為を働いてしまいました。
 よく知りもしない異性の部屋に上がり込み、しかもその部屋で一夜を共にしてしまいました。
 どうかお許しください。決して、誓って邪な事態はありませぬ故。



 ――なんて意味不明で支離滅裂な言葉を繰り返しつつ、私は外に出たと同時に静まり返った空気の中で出て来たばかりのマンションを見上げた。
(本当に、一晩過ごしちゃった……)
 自分でも信じられない短絡的で浅はかな行動。
 あの後、夕食はピザのデリバリーを頼んで健斗君と食べて、美味しいもの食べたら自然と焦りと怒りと動揺がおさまってむしろ気分が良くなって、その荷物整理しとけーと言われたものだから何となくその流れでそうして。
 適当にその辺にあるものは使っていいから、と言い残してそのまま健斗君はお風呂なんかに入ったりして、その後でお前も入って来いよーなんて言われて。
 そこでさすがにギクッとして体を硬直させたけど、呆れたみたいに健斗君が『言っただろその気ねー女を取って食いやしねーよ!』なんてまた怒鳴ってきたものだから大人しくお風呂いただいて。
(ベッド、借りてしまった……)
 家主様をソファーに押しのけて、悠々と。
 いくら使っていいと譲ってもらったとはいえ、良心の呵責があったのは確かだった。
 真夏とはいえ、これで体調を崩されでもしたらそれはやっぱり嫌すぎる。
 時刻は午前四時半。
 いつもより想定外に早く起きる羽目になってしまったから、体力的にやっぱりきつい。
(精神的にもびっくりしすぎててきついけど……)
 そんな事を考えつつ道路の方を見ると、昨日と同じナンバーの車がすぐ近くの路肩にしっかりと停まっていた。
 日向さんがすぐに運転席から出てきて、暗がりの中、街灯の明かりだけを頼りに私に近付いて来る。
「おはようございます」
 私と向き合うと、にっこりと微笑んで日向さんが丁寧に頭を下げて来た。
「お、おはようございます」
 本当に文字通り早い時間にも関わらず、こうしてきっちり、一部の隙もない形で来てくれているのが凄い。
 爽やかな笑顔で、疲れてませんか?とこちらに気遣いまでしてくれながら、後部座席のドアを開けてくれた。
「どうぞ、お送りします」
「あ、よろしくお願いします……」
 日向さんに勧められて開かれたドアから車内に乗り込む。
 いつも徒歩で出勤していたから、こうして迎えに来られるなんて初めてで、むず痒くて落ち着かない。
 私を車に乗せた後で、日向さんは日向さんも運転席に乗ってスマートフォンを取り出した。
 手慣れた様子で画面をタップして操作して、耳に当てる。
「おはようございます。……はい、今落ち合いましたのでこれから送らせてもらいます。……はい、いつもの時間には、またこちらに戻って来れるかと。はい、いつも通りに。分かりました」
 失礼します、という言葉で通話を終了して、日向さんはスマートフォンを胸ポケットに閉まった。
 会話の仕方と内容から、電話の相手が健斗君だろうという事は分かった。
(あれから後も仕事してたな、あの人……)
 昨日の夜の事を思い出す。
 私が風呂に入っている間も、何件か電話をしていたりパソコンの操作をしていた様だったし、ベッドに向かった時にもまだそれを続けていた。
 にも関わらず今朝は私が目覚めると同時に起きて、見送りまでしてくれたのだ。玄関先までとはいえ。 
 「それじゃあ、向かいますね」
 私に一声かけて、日向さんは静かに車を発進させはじめる。
 昨日は動揺して気付かなかったけれど、とても乗り心地がいい。
 静かで、無駄な動きがなくて、おまけに最適なシートの包み込むような柔らかさ。
「昨日、大変な事とか困った事は無かったですか?」
 高度な運転技術を披露しながらされた日向さんの質問に、私は少し戸惑った。
(大変な事って、もはやここに連れて来られた事自体が大変な事だったんですけれど……)
 それに一枚……所か二枚も三枚も噛んでいた人物が言う台詞ですかそれは、という日向さんを責める台詞はどうしても出てこなかった。
「本当に、急にすみませんでした。僕も雇われの身なので指示には従うしかない立場でして」
 苦笑いと共に日向さんが雇われは辛いですね、と言った。
 まあ、それはそうだ。間違いない。
 素直にそう同意出来たのは、多分今の日向さんの雰囲気が『柔らかいモード』だったからだと思う。
 昨日仕事終わりに私を車まで案内してくれた時と同じモードだった。
「あの……日向さんて、よく喋る人ですか?」
 脈絡のない話になっていると分かりつつ、私は日向さんに訊ねた。
「え?どういう事ですか?」
 日向さんからはやっぱりというか、質問に質問で返される形になってしまう。
 それでもこの柔らかいモードはかなり私にとって話しやすかった。
「何というか、健斗く……さんとお仕事の話をしていた時とは全然印象が違う気がして」
 危ない。危うく健斗君、と呼びそうになってしまった。
 日向さん相手には失礼に当たるかもしれないと気付いて、とっさに『さん』に言い換えて自分の考えを伝える。
「ああ。それは専務の前ではですね、弁えますよ私も。――坂上さん、上司の恋人や奥さんの前でその上司にベタベタしたりします?」
 日向さんが例え話を持ってきた。
 あ、確かにそれはしないな――なんて、普通に言われたんでついつい頷きかけたけど。
「ち、ちょっと待って下さい、私健斗さんの奥さんでも恋人でもありませんから!」
 必死に否定した私に、日向さんは根本的には同じでしょう?とハンドルをさばきながら言ってきた。
「まあ上司の大切な人に手を出して変にトラブルは起こしたくないし、余計な恨みもかいたくないって事ですよ」
 相手に逃げ場を与えない、無駄のない分かりやすい説明。
 有能な人だ、と思った。
 この調子ですんなり何でも対応してくれたら、確かに多少の無理難題は信頼して振ってしまいたくなるかもしれない。
「……あの、大変じゃないですか?」
 自分では思考を重ねた末の発言だったけど、実際にはまたまた脈絡のない話になってしまった。
「どうしてですか?」
 それでも日向さんは慌てず、嫌な顔もせずについてきてくれる。
「その、結構仕事振られて、忙しそうに見えて。昨日から」
「ああ。上が下に仕事を振るのは当たり前ですよ。上が余計な事に時間を費やさないでいいように、下はいるんでしょう?」
 一切詰まらせる事なく、日向さんは言葉を紡いでいく。
「いざという時責任さえ取って貰えればいいです、上には。上には上のやるべき事、やらなきゃいけない事がありますから。――専務も今日はハードですよ。何せ昨日半日近く潰れた分のタスクが丸々残ってますからね」
 ちらり、と一瞬だけ日向さんがこちらに視線を向けてきた。
 唇にはちょっと意地悪そうな、笑みが乗っている。
(それって……)
 もしかしなくても私のせいでしょうか。そう言いたいのでしょうか。
 問いかけたかったけれど、日向さんはすぐに前を見て運転に集中し始めてしまった。
 答えてくれそうな気はしたけれど、だけどこれ以上訊くとう何となく深みにはまってしまう、どこか知ってはいけない部分を知ってしまう事になりそうで――私は口をつぐんでしまった。



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