振り返って、接吻
きっとそれなりに勇気を出して話しかけて会話を振ってくれた彼女にも、なんの反応も返すことができない。俺は、ずっと、そういう人間だ。
返事代わりの瞬きをゆっくりしてみせてから、スマホの通知を確認する。
『いま忙しくなかったら、会社まで迎えにきて』
いま忙しくなかったら、なんて。ああ、ほんとうに白々しい。
宇田はどうせ、俺が迎えに来ることを知っている。
俺がオマエからの連絡を待っていたことを知っている。
タクシー代わりにつかわれている?ああ、そんなの結構なことだ。
俺にしかできないことも、誰にでもできることも、ぜんぶ、宇田に関することは俺が頼られたい。
誰かを呼ぼうかな、と脳裏に他の人物を浮かべられることさえ腹立たしいので、もうとっくに俺は気が狂っている。
しね、とだけ返信して、落ち着いた俺は、ようやくすぐそばに座っていた女社員と会話の途中だったことを思い出した。
でも、俺にとって、宇田社長のお迎えより大事な用事なんてこの居酒屋にあるはずがない。
自分の欠落をじゅうぶんに理解しているつもりだけど、それでも、もう、直せない。
「ごめん、クソ社長がお呼びだから先に帰るね」
さっと荷物をまとめて、周囲に頭を浅く下げる。みんな残念そうな反応を見せてくれて、良い部下だなと副社長としての俺が思った。
出入り口では、酔いも見せずにきちんと姿勢よく立っている秘書の千賀が待っていた。丁寧に施された化粧は、どことなく宇田を意識しているとわかる。
「お気を付けてお帰りください」
「領収書は会社でいいから、社員たちを楽しませてあげてね」
「かしこまりました」
じゃあ、と片手をあげて、俺は店を出た。外の風はきんと冷たくて、冬特有の澄んだ空気に包まれた。星は見えないが、月は明るい。
白い息を2回ほど吐いて、俺は運転席に乗り込んだ。車内は店を出る前に遠隔操作で暖めておいたから、まだマシだった。