夜空に咲く恋

第二話 右手と左手

 朱美と颯太が通う私立岡崎中央高校までは、家から最寄りの駅まで十分歩き愛知環状鉄道の電車に揺られて駅を二つ移動する。その後、駅から高校まで徒歩で十五分の道のりである。高校まで自転車で通う事もできる距離だが「駐輪場の確保に制限があり電車通学にご協力を」という学校側の意向に配慮した通学方法だ。

 朱美と颯太は話をしながら駅に向かう。

「電車通学って何だか憧れるよねー。定期券買って毎日電車に乗るって、ちょっと大人になったみたいな……」
「そうか? 俺は特に感じないけど」

「もう、颯太は味気ないなぁ。でも私、本当は銀色の愛環(※愛知環状鉄道)より赤い名鉄(※名古屋鉄道)の方が可愛くて好きなんだけどね」

「ああ、俺も名鉄は好きだな。あの赤色は見てて心が和むし落ち着くよ」

「あはは。分かるー。あとさ、もう一つ! 私の電車通学の楽しみと言えばっ!」
「楽しみ? ……何かあるのか?」

「分かるでしょ? 私達が子供の頃から好きなお店!」
「ああ、『せんわ堂』な」

 朱美と颯太が降りる駅は岡崎公園の側にある。岡崎公園とは岡崎城跡のエリアが公園になっている岡崎市の史跡名所である。

 天守閣や歴史資料館があり、毎年夏に開催される岡崎市花火大会の会場でもある。歴史的な名所という事もあり、付近には老舗の和菓子屋が点在している。その中でも朱美、颯太の家族がずっと贔屓《ひいき》にしているのが「菓子鋪せんわ堂」だ。

 創業百年を超える老舗で、香ばしく焼かれた平らな形が特徴のみたらし団子、岡崎市名産の八丁味噌を生地に練りこんだ甘じょっぱい味がクセになる味噌饅頭、女将が仕込む味わい深いおでんが人気の和菓子店だ。

「そう『せんわ堂』! これからいつでも寄れるよーっ。みたらし団子に味噌まん!」

「朱美はずっと味噌まん好きだよな。俺はおでんも好きだけど」

「おでんも美味しいよねー。ああ! 毎日あのみたらし団子と味噌まんの誘惑に負けたらどうしよう?」
「流石に毎日食べたら太るぞ」

……バンッ!

「痛って」

 朱美の鞄が颯太の背中をはたく。本日二度目の光景だ。

「こらっ、それは女子に言ったら駄目なヤツっ! 少しはデリカシーと言うものを覚えましょうねー。良いですかー? 高校生になった颯太君?」
「へいへい、それは申し訳ない事で」

 いつもの調子で心地良い会話に包まれながら歩みを続けていると駅が近づいてきた。

「ところで朱美? 昨日父さんが言ってたぞ。朝の通学電車は相当混むから覚悟しとけよって」
「えっ?」

 颯太の口から出た予想外の情報に朱美は困惑の表情を浮かべる。

「いやいや、それはないでしょ? だって愛環(※愛知環状鉄道)だよ? 昼間なんて貸し切り状態の愛環だよ? いくら朝の通学時間だからって……きっと大丈夫でしょ?」
「それ、愛環に失礼だぞ」

 颯太からの情報で一抹の不安を感じつつも状況を楽観していた朱美は、駅のホームに入るとその光景に目を疑った。駅のホームは次の電車を待つ多くの人々でぎっしりと埋まっていた。朱美にとっては見た事のない衝撃的な光景だ。

「えっ? ちょっと……これ、本当!? こんなに混むの!?」

「父さんの言った通りだな。でも、流石に俺もここまで混むとは思ってなかったけど」

「てゆかこれ、電車乗れる? 大丈夫!?」

 電車通学の初日。通勤時間に電車に乗る経験がない者にとって、大勢の人々でごった返す駅のホームは衝撃的な光景だ。朱美と颯太が生まれ育った岡崎市は決して都会ではないが、それでも人口は約四十万人。一時間に四本のみ走る通勤時間帯の電車は、乗車率百パーセントをはるかに超える。

「間もなく電車が参ります。白線の内側までお下がりください」

 ホームにアナウンスが鳴り響くと、間もなくして電車が到着して扉が開いた。

……プシューッ。

 電車の扉が開くと同時にホームを埋め尽くす人々が一気に扉の中へ吸い込まれていく。

「わっ!」
「ととっ」

 朱美と颯太は自ら歩くと言うよりも、潮流の中にある一つの欠片として電車の中に押し流されてゆく。車内は人と人で埋め尽くされ、体の前後左右は隣に立つ人と触れている。ぎゅうぎゅうに抑え込まれる程ではないが、足は動かす事ができない程度の混み具合だ。

 当然、天井からぶら下がるつり革は一人一本には足りない数だが、颯太は運良くつり革を手に取る事ができた。朱美は颯太の隣で予想外の混み具合に困惑の表情を浮かべながら両手で鞄を握って立っている。

「扉が閉まります。ご注意ください」

……プシュー。ガタンッ。

 車内アナウンスと共に扉が閉まり、車両が動き出す。

「わっ!?」

 つり革を持たない朱美は、うまく両足で踏ん張る事ができずに体勢を崩してしまった……が、颯太は咄嗟につり革から手を放して朱美の腕をとる。

「朱美、大丈夫か?」
「うん、ありがと、颯太」

 ホッと安堵の顔を浮かべる朱美に颯太が言葉を続ける。

「朱美、つり革持てよ」
「え? でも颯太は?」
「俺は……これでいい」

そう言うと颯太は、つり革の白い輪の部分を自分より背が低い朱美の左手に譲り、自分はつり革の白い輪をぶら下げる皮の部分を右手で握った。

 天井からぶら下がる一本のつり革を……輪の部分を朱美が左手で、皮の部分を颯太が右手で持つ。朱美はつり革の輪を譲ってくれた颯太のさりげない優しさに感謝しながら、颯太をチラリと見上げる。

(ほんと颯太って、いつもさりげなく優しいよね。でも颯太……身長こんなに伸びてたんだ。そういえば最近、こんなに近くに立つ事なんてなかったな……)

 一方颯太は、自分を見上てくる朱美を見て僅かに頬を熱くしてしまう。それを朱美に悟られたくない颯太は照れながら小さく言葉を漏らす。

「あのさ……あまりこっち見るなよ」
「ご、ごめん……」

 朱美と颯太は気まずそうに視線をそらした。すると、二人の傍から小さな笑い声が聞こえた。

「ふふっ」

 声の主は朱美と颯太の目の前で席に座るスーツを着た二十代の会社員と思われる女性だ。その女性は、目の前で一本のつり革を照れながらシェアする光景を見せてくれた女子高生と男子高生に、嬉しそうなはにかみの笑顔を送る。

「……」
「……」

 朱美と颯太は、その女性から送られる嬉しそうな笑顔から、自身の中にある「照れ」の感情を再確認できてしまい言葉を失う。

(何か、気まずいな……)
(このお姉さん、きっとそう思ってるよね。そんな風に思われると……颯太なのに……相手が颯太なのに……何だか意識しちゃうよ……)

 恥ずかしさと照れのせいで、朱美と颯太は会話をする事もお互いの顔を見る事もできず、黙って窓の外に視線を送り続けた。その視線の先では、春の暖かい日差しを浴びる穏やかな街の景色が悠然と流れていた。
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