『遠慮しないで』と甘く囁かれて ~誠実な御曹司の懐妊溺愛~
プロローグ
 あの日と同じ、冷たい雨が降っている。傘を差しながら保育園を出たところで、佳奈は後ろから声をかけられた。
「佳奈……」
 低く響く声で自分の名前を呼ばれ、思わず振り返る。そこには黒い傘を差しながら、思いもしない人が立っていた。
「礼二さん……どうして、ここへ」
 息を止めるようにして礼二を見上げると、彼は目を見開いて佳奈が抱っこしている子どもを見つめている。
「佳奈、その子は僕の……僕たちの子どもだよね?」
「違う、違うわ! この子は……この子は私の、私だけの子よ」
 佳奈は一歳を過ぎたばかりの赤ちゃんを抱き込みながら礼二に背を向けた。
 まさか、彼に見つかるとは思っていなかった。別れを告げるメールを出して、東京の住まいも引き払っている。探し出そうとしなければ、わからないはずなのに。
「どうしてそんなことを言うんだ、この子は……この子の父親は僕だ。そうだろう?」
「そんなことっ、違うわ!」
「……佳奈。すまなかった、君をひとりにして」
 礼二は眉根を寄せると悲痛な顔をしながら頭を下げる。佳奈の腕の中にいる赤ちゃんがごそごそと動き、抱っこ紐の中から顔を出して礼二を見つめた。初めて見る大人の男の人に興味を持っている。顔を上げた礼二は、瞬きもせずに佳奈を見つめた。
「お願いだ、どうして僕の前から消えのか……教えて欲しい」
「そんなこと言っても、もう……終わったことよ」
「終わってなんかいない。終わりになんてしたくないんだ、佳奈」
 佳奈の言葉を拒否するように顔を振った礼二は、そっと腕を差し出した。
「もう一度二人で、いや、その子も一緒に三人でやり直そう」
 雨音が激しくなる中、礼二はくしゃりと顔をゆがめるとまるで許しを請うような瞳で佳奈を見つめた。節くれだった大きな彼の手が、小さな自分を包み込もうとしている。
「私、私は——」
 キッと顔を上げた佳奈は礼二を見つめ返す。二人の間には埋めることの出来ない溝がまだ、深く残っていた。
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