鏡と前世と夜桜の恋
着物は乱れ、心は擦り切れる。痛みと恐怖に押し潰されそうになりながらも、雪美は声を上げない。
朝が来れば終わる。
そう言い聞かせるしかなかった。
顔にも、体にも、消えぬ痕が増えていく。
それでも雪美は俯かなかった。
殴られても尊厳を踏みにじられても。
心の奥にあるただ一つの想いだけは、誰にも奪わせない。
――会いたい、さくに。
夜が完全に町を覆う頃、雪美はそっと目を閉じる。明日もまた行こう、約束の場所に…
たとえ誰も来なくとも。
たとえどれほど苦しくとも。
待つことだけがさくと自分を繋ぐ、最後の糸だった。

すっかり日が暮れ汽笛が一つ低く鳴いた。
咲夜はその音に背を押されるように、付き人と一緒に政条家へ戻る為の最後の列車の座席に身を沈めた。
窓の外、夕暮れの町並みが流れていく。あの角を曲がれば団子屋… ゆきが居たはずだ。名を呼べば振り向いたはずだ。
それが出来なかった。
咲夜は膝の上で拳を握り、爪が掌に食い込むのも構わず力を込めた。
胸の奥が、ぎりっと音を立てて軋む。
「… 臆病者が」
吐き捨てるように呟いた声は、誰にも届かず列車の振動に消える。
刀を握る時よりも、命を賭ける場よりも、あの一歩が、あの一言が何より重かった。