鏡と前世と夜桜の恋
行商人の声、荷を運ぶ足音、鉄の匂い。
雪美は立ち止まり行き交う人々をぼんやりと眺める。
" 会えるはずがない "
そう言い聞かせながらも、視線は勝手に人の流れを追ってしまう。
その時
列車へ乗り込もうとする男の背中が一瞬、目に入った。
黒を基調とした着物
少し猫背で、肩幅が広くて…

急がぬようでいて、どこか焦るような歩き方があまりにも――
「… さく?」
喉まで出かかった声は音にならず消えた。
呼べばよかった
たった一言、名を呼べばよかったのに。
足が動かない。
違うかもしれない、人違いかもしれない。
胸が、どくり、と鳴る。
似ているだけ… そう思った瞬間には、男の姿は人の影に紛れていた。
雪美は足を一歩、前へ出しかけて… 止まる。
呼んではいけない
確かめてはいけない。
もし違っていたら。もし振り向いたその顔が知らぬ誰かだったら。
列車の汽笛が鳴り、白い蒸気が視界を覆った。男の姿は完全に見えなくなる。
雪美は胸元を押さえたまま、しばらくその場から動けなかった。
気のせいかも知れない… それでも。
今日たまたま聞いた噂と、今見た背中が心の中で、静かに一本の線で繋がってしまったことだけは否定できなかった。