鏡と前世と夜桜の恋
-- 翌朝。
雪美は目を覚ますと、いつもより早く身支度を整えていた。
理由は考えない。考えれば、昨日の噂と列車の後ろ姿がまた胸を占めてしまうから。
暖簾の下がる団子屋の前を通り過ぎる。いつもなら同じ時間に通う、必ず足が止まる場所。だが今日は止まらなかった。
――今日は、寄らない。
雪美は歩く。
店先から漂う甘い匂いが背中を引くように追いかけてきたが、振り返らない。
駅へ続く道は、昨日よりも長く感じられた。
人の声、下駄の音、朝のざわめき… どれもが、妙に鮮明で。
昨日のあの背中が
偶然ではなかったとしたら…
雪美は、ぎゅっと袖を握る。
期待するなと何度も自分に言い聞かせながら駅に着くと、列車はまだ入っていなかった。
ホームに立ち、行き交う人々をひとりひとり確かめるように目で追いながら、長崎行きの列車に乗り込み胸の奥で決意する。
一目でいい。
声など、聞けなくてもいい。
遠くからでも、背中だけでも。
―― 会いたい。
この胸に巣食う曖昧な想いを " 確かだ " と呼べるものに変えるために。
黙って戻ったと知れれば申又にきっと叱られる… それでも構わなかった。
雪美は列車の窓の外、流れる景色を見つめる。まだ見ぬ咲夜の面影を何度も何度も重ねながら。
「…待ってるだけじゃ、駄目よね」
小さく呟いたその声は決意に震えていた。
雪美を乗せた列車は
ただひたすら、東へ走り続けていた。