鏡と前世と夜桜の恋
雪美が売られた遊郭は京の外れにあった。
昼でも薄暗く、格子越しの光が畳に細い影を落とす。
名は変えられた。過去を消す為にあっさりと… 名は奪われるものだと覚悟していた。
親からもらった名もこれまで生きてきた時間もここでは帳面の墨1つで消される… それが、この世界の理だった。

名乗りの場で女将が言った。
「あんた、名はどうしたい?」
雪美は一瞬だけ伏せた目を上げ、はっきりと言った。
「八重桜 (やえか)にします」
季節外れの名だと鼻で笑う声があった。だが女将は雪美の目を見て、ふっと口角を上げた。
「… いい名だ。散ってもまた重なって咲く」
その夜から雪美の名は " 八重桜 (やえか) " になった。それが自分で掴んだ、最初で最後の希望だった。
だが雪美は、新しい名を周りに呼ばれても振り向くことが少なかった。心はいつもあの約束の場所に置き去りのままだった。
「ぼんやりしてんじゃないよ」
年嵩の遊女がすれ違いざまに肩を突く。
「客の相手もまだできない、金にもならない。こんなのが入ってきて迷惑なんだよ」
雪美は何も言わず深く頭を下げた。
希望はすぐに踏みにじられる。
媚びない。
泣かない。
愛想笑いを覚えない。
それだけで女の世界では罪になり、先輩遊女達の嫌がらせは日に日に露骨になった。
舞の稽古では、わざと足を引っかけられ転べば " 無様だね " と囁かれる。
三味線の糸は切られ化粧水には水が混ぜられた。それでも雪美… 八重桜は、何も言わない、言えば負けだと知っているから。
夜、布団に戻ると体のあちこちが痛んだ。誰にも触れられていないのに、心だけが犯された気がした。
雪美の態度はすぐ周りに目をつけられた。
「気取ってるつもりかい?」
「元は良いとこの女だったって?だから何だ」
夜になると、わざと最後まで呼ばれず食事は冷めた残り物を回される。
衣も他より古いもの、帯はほつれ香も与えられない。
「さく… 」
小さく呟いたその名を誰かが聞き咎めた。