鏡と前世と夜桜の恋
「女将、八重桜の世話は今日一日… いや、しばらく任せておくれ。立派な女郎にしてみせよう」
それが見せしめの始まりだった。
夜になると、雪美だけが灯りの届かぬ廊下の掃除を命じられる。
「客が通るから音立てるんじゃないよ」
畳に水がこぼされ拭けと言われ
拭い終えるとまた水が落とされる。

「まだ汚れてるじゃないかい!」
「駄目駄目、ほら、やり直し」
誰かがわざと足で蹴った。
笑い声が廊下に転がる。雪美は歯を食いしばり、何も言わずまた膝をついた。
食事も更に酷くなった。
「今日は忙しいからね」
雪美の膳だけ更に最後に回される。
汁は冷め、米は固く、香りもない。
「残すんじゃないよ」
「感謝して食べな」
誰かがわざと箸を落とす。
「ほら、早く拾いに来るんだよ!」
「… 遅い!頭下げな」
雪美は静かに頭を下げ屈辱を声にしなかった。それが周りは気に入らない。
「泣きもしない」
「悔しそうな顔もしない」
女将は離れた場所からその様子を見ていた。
「… 八重桜はまだ信じている顔だね」
八重桜の姿を見ながら女将は、自分の元に届いた一通の文を読む… 読み終えた瞬間、女将の顔色がはっきりと変わった。
-- 翌日。
「八重桜、今日はあんたは誰とも話さず、部屋から1歩も出るんじゃないよ!」
女将はそう命じただけで理由を一切告げなかった。

誰にも選ばれず、誰にも触れられず
雪美は部屋の隅で膝を抱える。
障子の向こうでは、楽しそうな笑い声と三味線の音が遠く流れている。
雪美はそっと目を閉じた。
-- さく
-- あなたは、生きて頑張ってるもの。
その想いだけがこの世界で唯一、雪美から誰にも奪えないものだった。
「… 誰のことを考えているのですか」
不意に、低い声が落ちてきた。

知らない男だった、1人で部屋に居た雪美にはいつからそこにいたのか分からず…
雪美は顔を上げず、愛想を振るうこともなく返事もしなかった。
「……。」
沈黙だけが、部屋に残る。
その沈黙を男は責めなかった。
「ここでは黙っている方が賢いか… 」
そう言って男は一歩、距離を取る。
畳を踏む音が、やけに軽い。
「女将はあなたを暫く表には出しません」
独り言のような口調だった。
「女将に届いた文… あれが効きましたね」
雪美の指先が、わずかに強張る。