鏡と前世と夜桜の恋
「売られた女を、貴方を “ 隠せ ”と命じる者がいる… 」
男は障子の隙間へちらりと視線をやった。
「これは上からの指示です」
その言い方だけで、
“ 誰の上 ”かは、語られずとも伝わった。
「女将は商いの人間、逆らえぬ相手もいる」
そう言って男は懐から預かった文を出す素振りをした。
雪美は文を出させるのを途中で止めさせ、顔を上げゆっくりと立ち上がった。
足は震えていた。
体は痛んでいた。
それでも、背は伸びていた。
(好きにすればいい)
(私を虐めたいのならやり続ければいい)
(私は最後まで、私を諦めない)
負けず嫌いだった、昔から。
雪美は守ると決めたものを他人に踏みにじられるくらいなら、どれほど惨めでも、自分が耐える方を選ぶ女だった。
その覚悟はまだ誰にも気づかれていない。
だが――
この遊郭の闇の中で、
確かに芽を出していた。
折れない女の、静かでしぶとい決意…
話し掛けて来た男の身なりは質素だった。だが、襟元の縫いは整い帯の結びに無駄がない。
「あなたは… 客じゃない?」
思わず漏れた雪美の言葉に男はわずかに口元を緩めた。
「そう見えますか」
否定も肯定もしない。
「… 私は、八重桜様のお世話役です」
「お世話… ?」
「" キリシマ " と申します。ある方から命を受けこちらに来ました、他の女郎には内密に」
男は、淡々と言った。
「あ、はい… 」
「ここは閉じた場所。だからこそ、外と繋がる細い道が必要になります」
雪美の胸が、かすかに騒ぐ。
「あなたは1人じゃありません、その事を絶対に忘れぬように」
男はそれ以上は語らずそう言い残し、立ち上がる。
「静かにしていなさい。今はそれが一番の身の守りです」
障子が閉まる。
音はほとんどしなかった。
残された雪美は胸の奥で息を整えた。
確信はない。
だが、確かに
遊郭の外で何かが動いている。
それだけで雪美は、夜を耐え抜くことができた。