鏡と前世と夜桜の恋

夕暮れの帳が降りる頃… 広間に太鼓が一つ、低く打たれた。その音だけで女郎たちは顔色を変える… 呼び出しだ。

軋む廊下を踏み鳴らす足音が、ひとり、またひとりと集まっていく。

紅を差し直す者、帯を締め直す者、露骨に舌打ちする者、雪美も最後に広間へ入った。

上座には女将が座している。







女将の背筋はまっすぐで視線は氷のように冷たい… その背後に灯りが揺れていた。

「よいか、皆の者」

低い声が、広間を撫でる。

「本日より、八重桜に世話係を付ける」

一瞬、空気が止まった。

" は? なんで? "

ざわざわとその場は騒つき始め、押し殺していた女郎たちの声が畳の上を転がった。



「この子に!?入って、まだいくらも経っておりませぬのに」

「わたくしには、まだ…」

誰かの呟きが棘を帯びて空気を刺す

世話係。

それは見習いが一人前へ近づく証。
まだ与えられていない女郎もいる。

何年も奉公してなお独りで身支度を整えている者もいる。

当然、納得行くはずがなかった。


雪美は伏し目がちに立っている。
だが、胸の奥は静かに燃えていた。

(早い者勝ちというわけでもないでしょうに)

羨望は、時に毒… その毒が自分へ向いているのを、雪美は痛いほど感じていた。

「お黙り!」

女将の声が鋭く走る。

「誰に口をきいている、ここは市井ではない、決めるのは私だ。」


静まり返る室内。

「八重桜は見込みがある、それだけのこと」

ぐう、と誰かが息を飲む。

悔しさが広間の空気を濁らせ、視線が幾筋も雪美へと突き刺さった。

――羨み。
――妬み。
――そして、敵意。

雪美は、ゆるりと顔を上げ、女将に見えぬ角度でほんのわずかに口元を歪める。


ほんの一瞬。
灯りの揺れよりも短い刹那。

(ざまあみろ)

声には出さない。
まばたきひとつの中に押し込める。

悔しそうに唇を噛み、爪を立てる女郎。
視線を逸らす女郎。

雪美は何も言わず静かに立つ。

けれどその瞳には、確かな勝ち誇りが宿っていた。


女将は立ち上がり場を締める。

「不満があるなら腕を磨け、妬む暇があるなら芸を上げなさい」

その言葉が、最後の釘となる。

広間は解散となり、女郎たちは散っていった。誰1人、雪美に声をかける者はいない。

だが雪美はひとり廊下を歩きながら思う…

(ここは戦場だ)


笑った者が勝つのではない。
最後まで立っていた者が勝つ。

悔しさを糧にするのは、あちらの役目。
それを踏み台にするのが、自分の役目。

障子越しに映る灯りを横目に、雪美はもう一度だけ誰にも見えぬ微笑みを浮かべた。

" 見ててね、さく… "

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