鏡と前世と夜桜の恋

薄曇りの昼下がり、おすずの屋敷では異様な熱を帯びていた。
「身請けだって…?」
おすずの声は、低く、押し殺したようでいて、奥底に煮えたぎるものを隠しきれていなかった。
申又がおすずに助けを求めるように帰って来て、早速聞いた内容が、まるで火種のように胸の内へ落ちたのだ。
「聞き違いじゃないのかい?」
「噂では咲夜の奴身請けの金は“ 幾らでも出す ” と、はっきり… 」
「さ、咲夜さんがあの子を… 」
陽菜の声は震えていた。顔色も青く、手の指先は白くなるほど強く握られている。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
「ふざけるんじゃないよ!!!」
畳を叩きつけるような勢いで、おすずが立ち上がった。茶碗が跳ね、鈍い音を立てる。
「なんであの小娘をちゃんと引き止めとかないんだい!!」
鋭い視線が、部屋の隅で小さくなっていた申又に突き刺さる。
「だ、だって… あの女、どれだけ罵倒しても咲夜のことばっかりで… 」
「言い訳なんて聞いてない!!」
ぴしゃり、と言葉が切り捨てられる。
申又は思わず肩をすくめた。額にはじっとりと汗が滲んでいる。
陽菜が口を開く。
「政条家はお金に困らないし、本当に咲夜さんがあの子を… いやああああああああ!!! 」
「だから余計に厄介なんだろう」
おすずの声はさらに低くなった。怒鳴るというより、底冷えのする怒りだった。
「売られてまだ日も浅い娘が… いきなり身請けだなんて話が通ると思うかい?」
「……。」
「通るわけないさ」
その一言には、確信と、そして歪んだ執念がこもっていた。
おすずはゆっくりと座り帯を締め直す。その仕草は落ち着いているのに、目だけが異様にぎらついていた。
「いいかい、陽菜。ああいうのはね、“ 潰す ” のが一番なんだよ」
陽菜の喉が、ごくりと鳴る。
「金が届かなきゃそれで終いさ」
「… そんなこと、女将が許す?」
「許すも許さないもない!」
ふっとおすずは笑った。だがその笑みには温度がなかった。
「金が届かないなら成立はしない。金次第、それがこの世界だろう?」
申又が恐る恐る口を挟む。
「で、でも… 相手はあの政条家だぜ… 」
その名を出しかけた瞬間
「だからだよ」
おすずは静かに言った。
「だから余計に面白くない!!」
その言葉にはただの嫉妬ではない、もっと根深いものが滲んでいた。
陽菜は涙ぐみ唇を噛む
「…身請け、止められる?」
おすずは即答で目を細める。
「絶対、身請けなんてさせないよ」
その声は、囁きのように静かで… 逃げ場のないほどの冷たさを帯びていた。