鏡と前世と夜桜の恋
背後に立つキリシマはただ黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「… 咲夜様が、渡月橋で待ってますよ」
その一言に雪美の肩がびくりと震える。
行きたい ——
何も考えず、その腕に飛び込みたい。名前を呼んで、泣いてすがって、全てを委ねてしまいたい。待ち合わせの場所へ、今すぐ駆け出したい。
けれど。
雪美はゆっくりと首を横に振った。
「… だめ」
小さく、しかしはっきりとした拒絶だった。
「私が行ったら… さく、きっとまた無茶する」
あの人はそういう人だ。雪美の為なら、どんな危険にも躊躇わない。どれだけ傷つこうとも笑って " 俺は大丈夫だ " って笑うの。
だからこそ、行けない。
「私が行けば… さくは… 」
言葉の続きを飲み込み、キリシマに連れられ店を抜け出し申又が住んでいる屋敷へと向かう。
自分が我慢すれば、そうすれば、咲夜はこれ以上苦しまなくて済む。そう思ってしまうほどに想いは深く、そして歪んでいた。
キリシマは歯を食いしばる。
「それで、本当にいいんですか?」
問いは鋭く、それでいてどこか優しかった。
雪美は答えない。ただ俯き、拳を強く握りしめ、キリシマを残し誰もいない申又の屋敷に入って行った。

その頃…
咲夜は渡月橋のある場所に立っていた。
夜の川面は黒く、風が水を撫でるたびに、淡い月の光が揺れる。
橋の上には人影もまばらで静寂が広がっていた。
来ると信じている。
来ないかもしれないと、どこかで分かっている。それでも待つことしかできない。
「… ゆき」
名を呼ぶ声は、風にさらわれた。
互いを想い、互いを守ろうとして、すれ違う… その優しさが、何よりも残酷だった。
一歩踏み出せば届くはずの距離が、どうしようもなく遠い。
夜は深まり、橋の上と座敷の中… 同じ月の下で、二人はそれぞれ、同じ痛みを抱えていた。
文を折り畳み、雪美は申又の座敷先に座り込み、ただじっと動かなかった。灯りは揺れているのに、時間だけが止まっているようだった。
指先に残る紙の感触。何度も読み返したはずの短い文。
それでも胸の奥は、読み取れなかった想いで詰まっていた。
「… 行けないよ、さく… 」
声にならない呟きは畳に落ちて消える。
理由はあった。けれど、それを伝える術がなかった。伝えようとすればするほど何かが壊れてしまいそうで。
雪美は顔を上げない。
行けば、きっともう戻れない。
行かなければ、もう会えない。
その狭間で、ただ息を潜めていた。