鏡と前世と夜桜の恋
一方、渡月橋…
夜の川面は黒く、月の光だけが細く揺れていた。
咲夜は橋の欄干に手をかけ、じっと水面を見つめていた。風が吹くたび袖がかすかに鳴る。
「… ゆき… 」
名を呼ぶ声は、夜に溶けていく。
来ると信じていた。どれだけ遅くなろうと、あの文を見れば必ず来ると。
だが、刻は過ぎる。
人の気配も、足音も、何ひとつ現れない。
胸の奥がざわつく。
嫌な想像ばかりが膨らむ。
「なんで来ないんだよ …」
低く漏れた声は、次第に荒くなる。
その時だった。
背後で複数の足音が止まる。
「そこまでだ」
振り返るより先に腕を掴まれた。強い力で引き倒され、地面に膝をつく。
「なにを… 」
咲夜は振り払おうとするが、さらに数人に押さえ込まれる。夜廻りの役人――江戸の治安を守る者達だった。
「この刻に橋の上でうろつくとは、不審者か!」
「違う、人を待ってるだけだ… !」
肩をねじ上げられる。痛みが走る。
それでも視線は川から離れない。
来るかもしれない。今、この瞬間に。
「離せ、離せ… まだ… まだ来てないんだ…!!!」
声が震える。
怒りではなく、焦りと恐怖だった。
このまま連れて行かれたらもう会えない。
「この顔… お前、もしや政条家の次男… 見つけたぞ!すぐさま連行する、申又様の命令だ!!」
叫びは夜を切り裂くほどだった。押さえつけられながらも、咲夜は必死に顔を上げる。
「ゆき… ゆき… !!」
その名は届くはずのない場所へ投げられ続ける。
川面は何も答えない。
月だけが、冷たく揺れている…
同じ夜、同じ刻。
片や橋の上で叫び、
片や座敷の隅で沈黙する。
ほんの一歩が届かない。
ただそれだけで、二人の想いはすれ違い続けていた。