鏡と前世と夜桜の恋
玄関の土間に立ち尽くしたまま、雪美は指先一つ動かせずにいた。
夜気は冷たく、遊郭の裏手を抜ける風が細い襟足を撫でていく。遠くでは三味線の音がかすかに鳴っているのに、その音さえ今の雪美には酷く遠いものに思えた。
" … さく "
胸の奥で愛おしい男の名を呼ぶたび息が詰まりそうになる。
その時だった。
廊下の奥、灯りの届かない暗がりから、小さく押し殺した声が聞こえた。
「…咲夜様が」
雪美の肩がびくりと震える。聞き覚えのある声… ゆりねだった。
「あちらは思った以上に早く動き、追われています。このままではまたお尋ね者に… 」
キリシマが低く息を呑む気配がした。
雪美の頭の中が真っ白になる。
もし咲夜が捕まったら…
その言葉だけがまるで鋭い針のように何度も胸へ突き刺さった。けれど次の瞬間、雪美はゆっくり顔を上げていた。
泣き崩れることも出来なかった。
門を開け放ち、ただ静かに、壊れてしまいそうなほど儚い顔で二人を見つめる。
「… 私は、この家に戻ります」
その声に、ゆりねとキリシマは弾かれたように雪美に駆け寄った。
「なりません!」
「身請けの話はもう咲夜様が付けたんです!雪美様は自由の身、このまま咲夜様の元へ行き、一緒に逃げ… 」
「いいえ」
雪美は小さく首を横に振った。
震えているのは身体だけで、瞳だけは真っ直ぐで不思議なほど静かだった。
「…ここで私がさくの元へ行けば、さくはまた罪人になる」
ぽつり、ぽつりと言葉が零れる。
「私のせいで… また追われる… また傷付く… 」
雪美は唇を噛み締め、白い喉が小さく震える。
泣きたいはずなのに涙は出なかった、もう涙すら枯れてしまったみたいに。
「私は… さくが生きていてくれればそれでいい… 」
最後の言葉だけ酷く弱く、その瞬間だけ雪美は今にも崩れてしまいそうな顔をした。
愛しい人の名を胸に抱えたまま、自分だけが泥の中へ沈んでいく事を選んだ女の顔だった。
ゆりねは唇を震わせ、キリシマも何も言えなくなる。
… 止めたい。
けれど雪美の覚悟が痛いほど分かってしまった。
咲夜を愛しているからこそ自分が離れるしかないのだと。
暫くして、屋敷の外から乱暴な足音が響いた。
引き摺るような音と荒い息遣い。
そして、血の臭い
雪美の身体が強張る。