鏡と前世と夜桜の恋
翌朝――。
夜明けとともに、村の掲示板へ一枚の高札が打ち付けられた。

『政条家次男・咲夜、陽菜との婚約相成る』
その知らせは朝靄よりも早く村中を駆け巡り、人々は仕事の手を止めて集まった。
「まさか… 」
「咲夜様が陽菜様と?」
「雪美様ではなかったのか」
誰もが信じられなかった。
幼い頃より咲夜が雪美だけを見続けてきたことは、この村で知らぬ者はいない。政条家の次男と雪美は、いずれ夫婦となるのだろう―― 皆がそう思い込んでいた。
驚き口を閉ざす者もいれば、小声で囁く者もいた。
「…無罪婚だ」
「責を負わぬ為の形だけの婚約だろう」
そんな陰口が風に乗って流れる。
だが、当の咲夜の耳には何一つ届いていなかった。雪美と結ばれぬのなら何もかも意味がない。
陽菜との婚礼も、豪華な打掛も、祝いの酒も、祝い唄も… 全ての色を失っていた。
咲夜の瞳からは生気が消え、まるで魂だけを置き忘れた人形のようだった。
(ゆきがおらぬこの世など… )
胸に残るのは、その一言だけ。
そして咲夜はまだ知らない。
雪美が申又を選んだのではないことを。
雪美が申又へ想いを寄せているように振る舞い、自ら咲夜を遠ざけ申又の一族を罰する証拠探しをしていることも…
" 兄の蓮稀と政条家が動いている "
何も知らぬまますべてを諦めていた。
俺がおらぬようになっても、もうどうでもよい、そんな考えだけが心を支配していく… 婚礼を数日後に控えた夕刻。
咲夜は誰にも告げず一通の文を雪美へ送った。
" 最後に会いたい " それだけだった。
場所は京の村外れの河川敷… 秋になれば、一面をオレンジ色のコスモスが埋め尽くす美しい場所。

幼い頃、ゆきと二人で蝶を追いかけ夕焼けまで笑い合った場所だった。
「… 最後にする」
その一言だけを残し、咲夜はおすずにも婚約者となる陽菜にも何も言わず家を出た。
風が吹く… 揺れるコスモスがまるで泣いているように波打っていた。
先に着いていた咲夜は、川面を見つめたまま動かなかった。

秋風が穏やかに吹き抜ける河川敷。
一面に咲き誇る秋桜が、夕日に照らされて淡く揺れていた。
ここは、咲夜と雪美が幼い頃から何度も訪れた思い出の場所。
" もし離れ離れになってもここで会おう "
幼い日に交わした約束は二人だけの大切な秘密だった。
勿論、その約束を知る者は誰もいない。