鏡と前世と夜桜の恋

「今日はまだ帰りたくないなあ」

「なら、もう少しいればいい」

咲夜がそう言うと、雪美は嬉しそうに頷き咲夜に抱き付いた。

「ゆ、ゆき… // 」

「バレたら大変だから、今日だけ… 今日だけにする!!」

「うん」

… 二人はなにも知らない。


自分たちの後ろに
誰かの足音があることを。

そしておすずの屋敷では、咲夜の帰りを待ちながら静かに未来を決めている者がいることを。

雪美と咲夜にとっては幸せな毎日。

けれど、その幸福のすぐ外側で――

何かが、ゆっくりと狂い始めていた。



変わらない日常

誰が見ても近頃の雪美は機嫌がよかった。

朝、目を覚ませば自然と口元が緩み、屋敷の者に声を掛けられても、以前より素直に返事をする。申又に暴力を振るわれても絶対泣かない…

その理由を、申又だけは知っていた。

―― 咲夜。

あの男と雪美が人目を忍んで逢瀬を重ねているから。



だが、申又は何も言わなかった。

" 明かす必要はない。まだ、な "

優しさからではない。

雪美を咲夜から引き離し、その幸福が跡形もなく崩れ落ちる瞬間を、この目で見たい… ただ、それだけだった。







「今日も出かけるのか?」

朝の廊下で声を掛けられ、雪美の肩が僅かに強張る。


「… 夜には戻ります」

それだけを告げ、深々と頭を下げる。

まさか、自分の秘密がすでに知られているなど夢にも思わない。雪美は屋敷を出ると、まるで重荷から解き放たれたように歩き始めた。

途中、いつもの団子屋へ立ち寄る。

「お団子くださいな」

包みを受け取ると、それだけで顔が綻んだ。


" 今日も咲夜に会える "

そんなことを考えながら、いつもの場所へ急いだ。

そして戸の前に立つなり

「さーくー!」

と、家中に響きそうな声で咲夜を呼ぶ。

「ゆき… って、おい!」

勢いよく戸が開き、慌てた様子で顔を出した咲夜が辺りを見回す。

「ゆき、声でかい!!」

「ふふっ」

雪美は思わず笑った。

そんな咲夜を見るだけで、胸の奥が温かくなる。

「だって… 」

雪美はそのまま咲夜の肩へ腕を回し、ぎゅっと抱きついた。

「今日もさくに会えたんだもん!」

その一言に、咲夜は言葉を失った。

腕の中の雪美は本当に嬉しそうだった。

ここへ来られたこと。

咲夜に会えること。

ほんの僅かな時間だけでも傍にいられること。

それだけが雪美にとって何よりの幸せだった。


「… ゆき」

「なぁに?」

振り向いた雪美の瞳が、僅かに潤んでいる… 咲夜はその顔を見つめ、ふっと目を細めた。

" 愛おしい " 雪美への気持ちが、胸の奥から溢れそうになる。

咲夜はそっと雪美の頭を何も言わずに優しく撫で続ける。

そして、雪美の額へ口づけた。

「さ、さく… // 」

頬を赤くする雪美を見て、咲夜は小さく笑った。

「… ゆきはずるい」

「え?」

「そんな顔をされたら、俺までどうにかなりそうだ」

「どうにかって?」

「知らない」


雪美は、わざと視線を逸らすそんな咲夜の袖をつまむ。

「… ねえ、さく」

「ん?」

「今日もずっと一緒にいてくれる?」

その言葉に、咲夜の表情が柔らかくなる。

「… ああ」

短く答えたあと、雪美をもう一度抱き寄せる。

「今日も帰したくないくらいだ」

< 258 / 294 >

この作品をシェア

pagetop