鏡と前世と夜桜の恋

蓮稀が提出した帳簿… それは、藤川が長年積み重ねてきた悪事を一つ残らず暴くものだった。

「… あの男… 」

藤川は、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。

蓮稀への憎悪が胸の奥から込み上げる… どれほど恨もうとも今この場に蓮稀はいない、自分を救う者もいない。

藤川は再び奉行に向き直った。


「奉行様… どうか今一度、お考え直しを… 自分にはまだやらねばならぬことが… 」

「黙れ。裁きは下された」

その一言で、藤川の膝から力が抜け砂の上に崩れ落ちた。

「俺はこんなところで終わるのか?こんな… 」


かつては己の見栄と欲望を頼りに、他人と張り合い、平気で人を踏み台にしてきた。

その男が今、己の命さえ自分ではどうにもできず、ただ震えていた。

やがて同心たちが進み出る。

「立て!奉行のお裁きである!」

申又は抵抗する力もなくうなだれたまま立ち上がり、藤川は最後まで何かを言おうとしていたが、声にならなかった。

陽菜は泣き叫び、おすずは怒声を上げ続けていた。

「蓮稀様!子供の頃から私が愛してやったのに… 政条の使用人に忍び込み、世話までしてやったんだ。私の心は蓮稀様のことだけを思っていたのに… 」

それぞれの後悔も、怒りも、恐怖も、憎しみも、もはや誰の心にも届かない…

四人は同心たちに連れられ奉行所の広間を後にした。


それぞれの声が遠ざかってゆくなか、おすずだけが最後まで白洲の奥を振り返っていたが、そこに助けの手を差し伸べる者は誰一人としていなかった。

こうしておすず一家の運命は決し、重い扉が閉じられた。

その音は、彼らが築いてきた悪意と欲望の世界に終わりを告げる音のようであった。
< 321 / 343 >

この作品をシェア

pagetop