鏡と前世と夜桜の恋
ーー 季節はまだ桜舞い散る春。
長崎へ戻った雪美は、まだ自分の足で歩くことができずにいた。身体は少しずつ回復していたものの、長い療養の日々で衰えた足腰は、以前のようには動いてくれない。
雪美は乳母車にも似た、車輪のついた椅子に身を預け、日々を過ごしていた。
そんなある日の昼下がり。
雪美が蓮稀に頼んで連れてきてもらったのは、丘の上に立つ、大きな桜の木の下だった。

見渡す限りの春の空。幹は太く、幾年もの歳月を重ねた桜の枝には、淡い薄紅色の花が咲き誇っていた。
そこは、雪美と咲夜が幾度となく訪れた、二人だけの思い出の場所だった。
風が吹くたび、花弁がひらひらと舞い落ちる… 雪美はその光景をじっと見つめていた。
「… さくは、ここが好きだったわね」
小さく呟き、雪美は微笑んだ。春とはいえ長崎の丘を吹き抜ける風はまだ冷たい。
「… っくしゅん」
不意に、雪美がくしゃみをした。
そのときだった。
「また、咲夜と話しているのか」
背後から聞こえた声に、雪美はゆっくりと振り返るとそこには蓮稀が立っていた。
相変わらず整った顔立ちに、静かな眼差し。しかしその瞳には、雪美の身を案じる色が浮かび、雪美は蓮稀を見上げると、悪戯を見つかった子供のように、ふっと笑った。
「いいえ… 」
そして、あざとく少しだけ首を傾げる。
「ここにいたら、蓮稀が迎えに来てくれるから」
にこりと笑う雪美。その言葉に蓮稀は一瞬、目を見開いた。やがて、蓮稀は桜の木へと視線を移した。
「… ここは、咲夜と雪美の思い出の場所であろう」
とても静かな声だった。
「俺には… 立ち入れぬ場所だ」
そう言って蓮稀は寂しそうに微笑んだ。雪美の笑顔が、わずかに揺らいだ。
蓮稀は、いつだって自分を気遣ってくれる。傷ついた身体を支え、帰る場所を与え、何も言わずにそばにいてくれる…
なのに蓮稀の心は、雪美と咲夜、二人の関係が何より大切で、決して自分から踏み込もうとはしなかった。