鏡と前世と夜桜の恋
「そうか」
それだけだった。けれどその短い言葉には、どれほどの安堵が込められていたことだろう。
ふいに、蓮稀が雪美の肩へ手を伸ばした。
「まだ冷える。身体に障るから帰ろう」
「え、もう?」
「もう、ではない。お前は自分の身体を軽く考えすぎる」
「ふふ… 蓮稀は心配性ね」
「誰のせいだと思っている」
呆れたように言いながらも蓮稀の声は優しく、雪美の車輪付きの椅子を押し丘を下り始めた。
雪美は何度も振り返った。
大きな桜の木。咲夜と笑い合ったかけがえのない場所。風が吹き最後の花弁がひとひら雪美の膝に舞い落ちた。
雪美はそれをそっと指先で拾い上げた。
「… ありがとう、さく」
誰にも聞こえないほどの声で、囁く。
「私… ちゃんと生きるからね」
そして、ほんの少しだけ顔を上げた。
前方には帰るべき家がある。そこには、自分を迎えてくれる人がいる。咲夜との思い出を胸に抱きながら、それでも明日へと歩いていくための場所がある。
車を押し、下る蓮稀の背中を見つめながら、雪美は静かに微笑んだ。
春の風はまだ冷たい。
けれど、舞い散る桜の花弁は、どこまでも優しかった。まるで、遠い空の向こうから咲夜が雪美の新しい一歩を見守っているかのように。
―― 生きろ。
その声が本当に聞こえたわけではない。
それでも雪美は、そう信じてみたかった。桜の花が咲く限り。
咲夜と過ごした日々が胸の中にある限り、雪美の春はまだ終わらないのだから。