かつて女の子だった人たちへ
かみさまかみさま
第1話
ガシャンと音を立ててグラスが床で割れてはじけた。夫が気に入っているバカラのウィスキーグラスだが、わざとではなかった。夫の腕を振り払った結果、当たってしまった。雪奈(ゆきな)は壊れたグラスではなく、夫を凝視していた。
「どうして?」
唇から漏れた言葉は震えていた。おそらく目は見開かれているだろうし、表情は怒りと混乱で狂気じみているだろう。
夫の俊夫(としお)はちらりと割れたグラスを見やった。しかし、グラスに言及するのが愚かしい選択だとわかっているのだろう。すぐに雪奈に視線を戻し、苦笑いで答える。
「落ち着いてよ、雪奈。きみがそんなに怒ることじゃない」
「怒るわよ! 夫が若い女と会っていたなんて!」
雪奈はテーブルに置かれた俊夫のノートパソコンを指さした。画面には女性とのやりとりが記されてある。マッチングサイトの個人チャット画面だ。
「私が普段PCを使わないから油断した? スマホは自由に見ていいなんて言って、こっちでマッチングアプリをしていたの? 信じられない!」
「やましいマチアプじゃないって。健全なヤツだよ。会ってごはんを食べたり、お喋りしたりするだけ。仕事柄、若い女の子の感性に触れておきたいんだ。わかるだろ?」
俊夫は女性向けのアパレルショップを何店舗も経営する実業家である。しかし、これではパパ活のパパだ。
「複数の女の子と会って話してお金あげるのが、若い女の子の感性に触れることなの?」
「仕事の一環だよ。取材みたいなものかな」
「見え透いた嘘をつかないで」
雪奈はマウスを手にメッセージのやりとりをスクロールする。
【このアプリじゃなくてショコラで繋がらない?】
【いーよ】
ショコラトークはメッセージアプリだ。そして、夫のスマホには入っていなかったはずである。
「社用のスマホにショコラトーク、入れてるんじゃないの?」
俊夫は困ったようににやにやしながら黙っている。その沈黙が肯定なのは充分わかった。
「俊夫、ちゃんと説明して!」
「しー、絆(きずな)が起きるよ」
たしなめられ、雪奈は口元を押さえた。ひとり息子の絆には絶対にこんな現場を見せられない。
俊夫は「ちゃんと説明するよ」と社用のスマホを取り出した。その笑顔はどこか余裕があり、その様子がこちらを馬鹿にしているようにも見えた。