ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

3 『今はどうしても彼の力が必要だった』

多恵は、くたびれた社長椅子にどっさりと体を沈め、魂が抜け出そうな長い長い溜め息を吐いた。

睫が深い影を落としている。仰月型の美しい唇は、今は真一文字に結ばれていた。疲労感は体全体から陽炎のように立ち上って、いかにも進退窮まったという様子だ。

瞼の裏に、血色の悪い唇が浮かんだ。白髪混じりの口ひげの下、盾に筋の入ったナメクジのような唇だ。

〈今さらですねぇ〉と、野太い相州なまりが脳神経を直撃して、多恵の不快指数をさらに上げた。


▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎


「無理を承知でお願いします」

駅と庁舎と城跡の杜を見下ろす豪奢な会長室で、多恵は反発する己の背中を何とか押し倒し、セミロングの黒髪を揺らして深々と腰を折った。

視線の先にはオニックスのテーブル、灰皿は瑪瑙でできている。お尻がむず痒くなりそうなゴブラン織りの金フレームソファーは、オークションでウン百万円したといつか自慢していたっけ。

紫檀の本棚にはたぶん一度も閲覧されたことのない大層な専門書が整列し、壁には派手な金細工の額縁に納められた巨大な赤富士の絵がかかっている。
柿右衛門もどきの大皿の横に、見覚えのある赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい)が飾られていた。

趣味の善し悪しは別にして、多恵が今いる倉庫と化した社長室とは雲泥の差だ。

「電話でもお話したとおり、すでに取締役会で決定済みのことですよ」

黒川は口端に咥えたパイプから甘い紫煙をくゆらせながら言う。

財力と一緒に腹の脂肪も溜めたのか、ふんぞり返って見えるのはきっと蝦蟇のように膨らんだ腹のせいだ。ぎょろりとした目と大きく張った小鼻、ただでさえ大仰な顔立ちなのに、脂ぎった顔艶は他人の生気を吸い取る妖怪のように若々しい。

多恵は、文字盤にダイヤモンドが散りばめられた金無垢の時計と、嫌味なほど大きなオニキスの指輪を、どうしたらこんなに俗習芬々になれるのだろうかとうんざりとした思いで見つめながら、ひたすら頭を垂れ続けた。
< 10 / 154 >

この作品をシェア

pagetop