ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

「会長にはご厄介をおかけしました。今後のことについては、役員や社員とも検討して参ります。それで──お電話でご相談させていただいた件ですが、お考えいただけましたでしょうか?」

「もし、万が一──」

黒川は、鱧の身をつまみながら、目録でも読むような声で言った。

「万が一、ポラリスが破綻した場合は──」

多恵を弄ぶように言葉を切り、食事を続ける。多恵は待った。

「伊佐山君はお引き受けしましょう。温泉町の黒川別亭で、というのはいかがです?  現在は和食のみのレストランに、フレンチを加える案を進めています。待遇は今までどおり、彼のスタッフも全員、呼んでいただいて構いません」

ありがたすぎる条件だった。
伊佐山を欲しい店はいくらでもある。しかし四人まとめて、となると難しかった。
純平は実家に戻れるかもしれないが、秋葉と紗季の才能は、伊佐山のもとでこそ輝く。特に秋葉は伊佐山への敬仰が強過ぎて、それこそ「二夫に見えず」と言い出しかねない。

黒川別亭なら、かつての〈ゆきむら〉を買い取って再建した宿。黒川にとっては、ステイタスシンボルのような存在だ。そこなら、伊佐山たちの先行きも安心していられる。思いもかけない厚遇だ。

しかし、問題は……。

「お骨折り、ありがとうございます。それで……本多は、そちらでは無理でしょうか?」

本多は、ホテルマン一筋の人間だ。しかし他のホテルに再就職するにも、新聞沙汰にもなった刃傷事件が支障となるだろう。
迂闊なフロントマンの大失態だったが、支配人としての管理能力は問われて然るべきだ。
妻子もあり、あの年令で、一から出直すことは、あまりにも厳しい。

「その件は……もう少し後で」

黒川は笑い、また酒を注いだ。

「さ、どうぞ。姫様」

多恵は黙って盃を受けた。
ここからは駆け引きだ。強引に押し進めて、席を立たれたら元も子もない。

黒川は、廊下に向かって大きく手を打った。

「それより、姫様はどうするつもりです?」

「独りですし、何とかなります」

「結婚は?」

「相手がいません」

ギョロ目がさらに大きく見開かれたとき、すっと襖が開いた。
仲居に何やら耳打ちした黒川が、卓の蔭で心付けを握らせたのを、多恵は見ていないふりをした。

「それだけの美貌で男がいないとは、信じられん」

「好きなひとはおりましたけれど、別れました」

「ほう」

黒川は愉しげに声を上げ、多恵の体を舐めるように見た。

「その男ももったいないことをする」

黒川は銚子を手に、のっそりと立ち上がった。
多恵は、相手の動きを視線の端で追いながら、ひとつ大きく息を吐く。

黒川は鼻息がかかるほどの距離で胡座をかき、手酌で酒を注ぐと、満ちた盃を多恵の前に差し出した。
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