ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?

「本多君のことですがね……」

低くくぐもった声で言う。
多恵が一気に乾した盃に、再びなみなみと酒が注がれる。

「私もね、あれだけの人材を惜しいと思っているんですよ」

「それでは、お考えいただけますか?」

多恵は目を上げ、真っ直ぐに問うた。

黒川の手が、ふいに多恵の腕をつかんだ。ぐっと引き寄せられる。
座椅子が軋み、多恵の体は座椅子から滑り落ちるように傾いた。

「伊豆の旅館を手に入れてね……」

耳の穴に生温かい息を吹き込むように囁かれ、多恵は目を堅く瞑り体を縮めた。緊張や恥じらいからではない。奥歯を噛みしめなければ、きっと殴ってしまいそうだからだ。

「私も妻を亡くしていますし、姫様が女将を引き受けてくださるなら、他の人事はすべて任せてもいい」

唇が、耳朶をかすめる。全身に鳥肌が立った。

耐えきれず、体をかわそうとしたとき、ふいに引き寄せる力が緩まって、凧の糸が切れたように多恵は横倒れに崩れた。

アッと思ったときにはもう、黒川に組み敷かれていた。

「やめてください……」

自分の声が震えていることに気づいて、多恵は己を叱咤した。

ここまできてみっともない。生娘でもあるまいし、ギブアンドテイクと覚悟して来たはずだ。
頭ではわかっているのに、体が拒絶している。
第一、こんな明るい畳の上で、いきなりとは野蛮すぎる。

ヤニ臭い唇が押し当てられて、多恵は我慢ならないと男の顔を両手で押しのけた。

「やめましょうか?」

黒川は意地悪く薄嗤った。

そうだ、誘惑したのは多恵の方だ。たかが肉体一つ。こんな体でも何人かの従業員と家族を救えるのだから、女に生まれてきて良かったと感謝しなければならない。屋外であろうが、人前であろうが、こちらが贅沢を言える立場ではないのだ。

多恵は抵抗をやめ、覚悟を決めて目を瞑った。

ふと、多恵を畳に貼り付けていた重しがとれた。
頭の上で襖が開く音がした。

怪訝に襖の奥の薄闇に目を向けて、多恵は顔を覆いそうになった。
枕元の行燈に浮き出された布団には、淫靡に枕が二つ並べられていた。
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